●● ★お仕置きは電車の中で★ ●●
若干25歳の天才実業家。
日本最大級の広告会社『ディープブルー』社長。
世界長寿番付18位の実績。
社長自らの社員教育で、個人の実力も他とは違う。
広告は『ディープブルー』に是非お任せを。
俺は電車にかかっているこのポスターを見るたびに、思い切り破きたくなる。
自分で作ったポスターなんだけど。
俺の勤めている『ディープブルー』は今や日本最大の広告会社へと成長したが、もとは、一人の金持ちボンボンの始めた小さな会社だった。
社員も、社長と、社長秘書の俺。後数人の実力をもった引き抜かれた人たちだけだった。
そんな小さな会社が、たかだか3年でここまで大きくなったのには、わけがある。
憎らしいけど・・・社長は、ただの金持ちボンボンじゃなかったってことだ。
「おはようございます、社長」
朝、社長室のドアを開くとき、俺は必ずこの言葉で入る。
そして、毎日同じ言葉を返される。
「遅い、葵」
社長室にいる人物とは思えない、その態度に俺はついつい素に戻りそうになって、自分い自制をかける。
「・・・・・・・・・出社時刻は8時で、今7時過ぎです。早いくらい・・・ですよ」
俺の家は、会社よりはるかに遠いところに在る。
だから、七時に来るためにだって結構な早起きをしている。
A型の性格が生じて、早起きはさほど苦手ではないけれど、これ以上早く来たって社員はこないし、仕事にならないだろうが。
「俺の家に引っ越してくればいいだろ」
拗ねたように社長に言われ、俺はため息をつく。
この台詞もはじめてではないのだ。
「何回も言いましたように、それは駄目です」
「だったらまだ就業時間じゃないんだから、敬語くらいやめろ。葵」
「ここは会社内なので、やめません」
「葵」
ガタンと立ち上がった社長は、どうしてここまで経済力があるのかと疑いたくなるほど感情に流されやすい。
俺は自分の嫌いな真っ青の目でまっすぐにその社長を見据えた。
社長はそのまま社長イスをよけて、俺の真正面にたって、手を伸ばしてきた。
耳のあたりから、頬のあたりまでを何度も執念深く弄られて、俺は思わず声を出しそうになって、根負けする。
社長室で秘め事に入られるよりだったら、自分の信念を曲げたほうがまだマシだ。
ちなみに俺の私情を会社に持ち込まないために勝手に決めた信念は、
@ 会社では、『社長』と呼ぶ
A 会社では敬語を使う。
B 会社では敬意を払う。
C 会社でえっちぃ事はしない。
以上、四項目。
「・・・・・・・・・ここでは、深田って呼ぶように言っただろ、朔也っ」
「やっと、名前で呼びましたね・・・」
子供みたいな顔をして、社長こと・・・・・・大海朔也は俺に抱きついてきた。
普段は社長なんだから、秘書になんか敬語を使うなって言ってるんだけど、素に戻るといつしか朔也の言葉は敬語に戻る。
これは、大学時代・・・俺が先輩で、こいつが後輩だったから。
「・・・・・・ここではしたくないって言ってるだろ」
だから、俺も素になると社長相手なのに、普通にしゃべってしまう。
そのために、あの四項目が設置されてるんだけど・・・。
「何故?貴方がさせてくれないから、欲求不満で俺は枯れ死にそうなのに」
ふざけるなよっ・・・。
社長室の壁に、押し付けられるようになってる体制のまま、俺はそれでも朔也をにらみつけていた。
だって、『してない』んじゃない。むしろ俺たちは『しすぎ』なくらいだ。
現に言っておくが、一昨日の晩、俺は残業で疲れているのに呼び出すこいつの約束をちゃんと守って、都内のスウィートに泊まるはめになった。
「『一昨日の晩のはなんなんだ』って顔してますね」
珍しく図星をつかれて、葵は顔を真っ赤にした。
A型で、堅物な葵は、それに似合うくらい顔立ちもお人形のようで、もともと北欧系のクォーターであるせいか、瞳は青く、そして肌は雪のように白かった。
女性らしいというわけではない。
現に背は低いわけではなく、170を超えている。
ただ、細身な体系や、スーッと通った骨格や綺麗な肢体が・・・男女関係無く魅了した。
言うなれば、貴公子や皇子なんて言葉が似合いそうだった。
大学時代、やはり目立つ存在だった葵と同等に目立っていたのがこの朔也だった。
もちろん、葵とは別の『目立つ』だったけれど。
日本を取り巻く大海商会といったら、有名な会社だ。
そこの御曹司であり、一人息子が大海朔也この人だった。
つまり、就職先もきまった金持ちぼっちゃんが遊びで大学にきているようなものだった。
しかし、そんなお坊ちゃまも恋に落ちた。
彼らが出会ったのは、なんのことないただのサークルの飲み会だった。
朔也の一目惚れで、押して押して押されまくっているうちに・・・葵もこの傲慢な男を好きになってしまって、社会に出た現在もこうして一緒にいるわけだ。
社長と秘書として。
大学時代からつきあっているんだから、もう7〜8年の付き合いになるのだが、朔也の惚れっぷりは相変わらずで、一日セックスをしないくらいで、この勢いなのだ。
「足りませんよ・・・。あなたは先に帰ってしまわれるし」
そう。一昨日の晩・・・スウィートに泊まったと言っても、俺は早々に起きると朔也の腕を抜け、一人帰宅したのだ。
だって、二日同じスーツで会社なんていけないだろ!
社会人として、けじめは必要なんだよ。
「社長。そろそろ社員が来始めます・・・っ」
なんとなく雰囲気が危なくなってきて、葵はネクタイに手をかけた朔也の手を止めた。
「一緒に暮らしましょう・・・葵・・・」
「しゃちょう〜・・・っ」
葵は朔也のネクタイをひっぱり、自分の上から退かせた。
多少強くひっぱってしまったらしく、朔也は咳き込みながらよろける。
そんな派手に大げさに苦しむ朔也を上から見下すと、二人が動いたせいで落ちた書類をかき集める。
重要書類にまだ捺印されていない事を確認して、葵はムッとして後ろで今だ苦しんでいるだろう社長を問い詰めようとした。
「社長、これ昨日のうちに―――んんっ!・・・」
ふいうち。
一瞬にして、葵の頭に浮かんだ言葉だった。
葵のすぐ横あった、真っ黒い皮製のソファの上に葵は唇をふさがれたまま押し倒される。
やめろ、と言う隙も見せない。
もうヤルことしか頭に無いガキのように、朔也は葵のスーツの胸元に手を差し込む。
さっきまでの前戯はお遊びだったことをもの語るように、今度の朔也は本気だ。
荒々しい手つきで葵のワイシャツのボタンを外き開くと、どこに準備していたのか潤滑油がつきぬるぬるになっている手を差し込む。
「ふぅっ・・・しゃ・・・ン・・・社長・・・っ」
やっとのことで口の拘束を外され、喋られるようになって言えたのは、そんな漏れた声だけ。
朔也はゾクゾクと感じ、無邪気な子供のように笑った。
「知ってました?あなたが嫌がるほど、俺は感じるんですよ・・」
「ふざける・・・なよ」
終業時間開始は8時から。
既に時計は7時35分を過ぎている。だんだんと他の社員がここに訪れる時間だ。社員は会社にきたら、まず社長室の隣の部屋で出席をタイムカードで確認するから、もしこの辺を歩いていたら、こんな情事の声や音は聞き取られてしまう。
それでなくても、女子社員からは変に勘くがれているのに・・・。
日本最大級の会社の社長が実は・・・なんて変なスキャンダルを起こすわけにはいかないじゃないかっ!
葵は押し寄せる快感と、それに耐える苦痛に顔を歪ませながら必死に朔也の手を振り解く。
「貴方だって疼いているはずでしょう・・・?昨日、しなかったんだから」
セックスを覚えたてのガキでも、付き合い始めの初々しいカップルでもない。まして、昨日していないだけで、ほぼ毎日俺を襲ってる男の言うことか!?
「こっんの・・・・・・」
あまりの怒りで殴り退かそうと葵が普段人なんて殴らないその拳を握り締め奮うと、そんな葵の行動読んでいたかのように簡単に避けた朔也のせいで、その手は―――。
ガシャーーン。
「!?」
「あ〜あ、壊れてしまいましたね」
残念。そう笑いながらヤツは言った。
俺の拳は見事、見事命中をはたしたんだ。
けれど、それは今世界で一番憎いコイツの顔じゃなくて、俺たちが寝ているソファの横のチェストに飾られた、この社長室でも1、2位を争うほど高価な装飾品。
「真鍋氏の壺・・・・・・『春菊』だっけ?」
「・・・・・・・・・『春風』だ」
乱れた衣服もそのままに俺はソファから跳ね起きると、無残にもバラバラになった、大好きな大好きな壺のカケラを集めた。
装飾品や、絵にまったく興味の無い朔也の代わりに、この社長室をより高貴にコーディネートしたのは、葵自身だった。
絵も、デスクも、今しがた情事をおかそうとしていた皮のソファも全て葵の趣味で、その中でも一番の葵のお気に入りは、この真鍋と言う日本の陶芸家が作った壺だった。
葵があまりにこの陶芸家を褒めるものだから、朔也がヤキモチをやいて、壊そうとして喧嘩になったこともある一品。
魅力的な格好で呆然とする葵に後ろから抱きつき、朔也は首筋にキスをした。
「いいですよ、そんなもの。どうせ今日新しいのに変える予定だったじゃないですか。それよりもあなたの美しい手にお怪我はありませんか?」
「よくないっ!!」
手の甲にキスをされ、イライラに拍車のかかった葵は朔也に思い切り怒鳴ってしまう。
「これは、これは・・・あの俺の大好きな真鍋先生にお願いしてようやく作ってもらえた作品で―――」
大好きな先生。
この台詞は、それまで機嫌のよかった朔也をカチンとさせた。
そんな事・・・・・・・・・うろたえてる葵は気づかないんだけど。
「―――葵、今すぐ古畑アートギャラリーに行くんだ」
「・・・は?」
いきなりの社長モードに、葵はわかがわからず、手にもったカケラを落とし朔也の顔を見た。
「社長命令。新しい壺が届いているはずなんだ受け取って来い」
理不尽な言葉に、葵は眉間にしわを寄せた。
何がどうなったのかわからないけれど、今確かにコイツは公私混同している・・・。
「社長お言葉ですが、壺は今日の一時に配達されることになってます」
そっちがそうくるならと、敬語で返すと、朔也は顔色一つ変えず冷酷に返してくる。
「それがどうした。俺は今すぐ壺が見たいんだ。そんな誰が作ったものかわからないような駄作の壊れたものなんて用はない」
「―――っ!!」
駄作とまで呼ばれて、葵は煮え渡るような怒りを感じる。
なんだとーっ!お前だって最初見たとき、良い作品だって言ったじゃないかっ。・・・その後はなんでだか喧嘩になったけど。
「俺の・・・・・・私の本日の仕事はどうなさるおつもりですか」
「関係ない。さっさと持って来るんだ」
仁王立ちの、我侭な社長にそういわれて、葵はもう怒る気すらない。
「わかりましたっ」
葵は解けたネクタイを片手で引き抜き、再び首に通し綺麗に結ぶと肌けた胸元もそのままに社長室を飛び出そうとした。
「―――ああ、そうだ」
「はいっ!?」
ついつい大きな声でふりむけば、社長がニーッこりと笑った。
「社用の車は使うなよ。お前が大好きな電車で行って来い」
「あんの馬鹿社長っ」
社を出てすぐに目に入った空き缶を高々と蹴り上げながら、俺は罵倒を繰り返す。
駅は会社から歩いて数分の場所にあるから、別に車を使う気なんてさらさらなかった。むしろ、日々、この不景気のご時世で、悠々自適な金持ちぼっちゃんの金遣いの荒さに、経費削減と電車を使うように言っているのは俺だ。
なのに、わざわざ言うところが憎らしい。
別に電車が好きだから、同棲しないわけじゃないっ。
むしろ、変態は多いわ、混んでるわ、終電逃がすと大変だわで厳しいことが多いし。
「はぁっ・・・」
中途半端な時間のせいか、さほど混んでいない車両を発見し乗り込むと、俺はとりあえず大きなため息。
同棲・・・・・・決して何も考えず拒んでいるわけじゃない。ただ・・・時期じゃないっていうか。
いや、そういうんじゃなくて・・・。
「7年半・・・か」
出会って8年、付き合って7年半。
例え男同士であっても、何か進展を求めている時期なのかもしれない。
っていっても、同棲の話は会社が出来てすぐにもう出てたんだけど。
その頃は、まぁ忙しくてなかなか落ち着いて逢えなかったから欲求不満がたかって文句つけられて、えらい騒ぎになったけど・・・本当に忙しくて引越しとか考える暇なかったし。
今は・・・・・・落ち着いてきちゃって、もっと考えるようになっちゃったんだな・・・。
って、俺・・・どうしたいんだろ。
もともとノーマル嗜好だったけれど、女にさほど激しい感情も無かったから、バイくらいのノリだったのかもしれない俺でも、やっぱり男・・・しかも年下にそういう対象にされて、そういう行為をされることには今だ抵抗がある。
何度抱かれても、それは消えることは無い。
だけれども、俺は確かに朔也が好きで、その事実も変わらなくて。
だから、その行為自体に、俺にもう突っかかりは無いと思うんだけど・・・。
「旭ヶ丘〜・・・旭ヶ丘〜・・・降り口左です」
電車で約20分間も、最愛の恋人の事を考えていたのかと思い、少し赤面しながら葵は電車を降りた。
時刻は11時過ぎあたりで、やはり中途半端なせいか、駅にはまばらな人しかいない。
休みのとれた家族連れや、暇な学生たちが数人いるだけだった。
葵は怒るように出てきたせいで、受け取り場所となっている古畑アートギャラリーの正しい位置を知らなかった。
むしり取るようにしてもってきた地図の切れ端のしわを広げ、確認し、旭ヶ丘駅南口から外へとでた。
日差しの強くなってきている日中、眩しい限りの明かりを、めったにとれない休日をほとんどベッドの中で過ごそうと強要するアイツに見せてやりたいと思った。
「・・・とと・・・早くしないと・・・また煩くなるから」
そんな独り言を呟きながら、徒歩15分とかかれた地図を右手に歩き出した。
こういった不動産屋の情報はだいたいハズレが多いんだけど・・・。
「深田さん・・・・・・ですか?」
自分の横にとまった、少し薄汚れている白いワゴン車から手動窓をさげて顔をだした女性が申し訳なさそうに聞いてきた。
旭ヶ丘周辺に住んでいるわけではない葵は、怪訝そうにその女性を見た後に、ワゴン車に書かれた『古畑アートギャラリー』と言う文字に、ますます訝しげる。
「古畑・・・アートギャラリーの方ですか」
葵の気後れするくらい綺麗な顔で見つめられ、運転してきた女性はポッと頬を赤らめながら、手ぐしで髪をひっきりなしになおしている。
「ええ、そうです。じゃあ、やっぱり貴方が『ディープブルー』の深田さんね」
「はい、そうですが・・・」
確かに出る前に、一応電話は入れたけれど、この辺りで古畑アートギャリーの人と会うのはなんとなく奇妙だ。
「よかった。さあ、乗ってください」
「え?」
「壺、受け取りに着たんですよね?」
それはそうなのだが・・・。
俺は確かに、貴社の事務所に受け取りに参ります、そう言った。
場所はわかりますか、と聞かれたから、ちゃんと、はい、とも答えた。
「あの、もしかして私を迎えに着たんですか」
そんなビップ待遇してもらえるほど、こことは付き合いがない。
「はい、事務所に電話があったので」
「電話?」
自分が出掛けに入れた、アレだろうか。
「ええ、先ほど・・・そうですね5分前くらいかしら。うちの深田が貴殿の商品を受け取りにいったんですけど、早々に返して欲しいんで、駅まで送り迎え頼めますか、って」
葵は瞬時に顔がカッと赤くなった。
それは、恥ずかしさと・・・・・・怒りから。
そんな電話をかける人物は一人しかいない。
社長・・・・・・だ。
喉の奥のほうをキリリと鳴らせる葵に気づかない彼女は、美麗な葵にすっかりうとりしながら、車の鍵をあけた。
「さ、乗ってください」
古畑アートギャラリーについてからも、頭があがらない葵は始終腰を低くして、申し訳ない、と何度も言っていた。
納品は今日の午後だったにも関わらず、午前中のうちに取りに来て、そして、その上歩いて15分たらずの道のりを、わざわざ相手方の車で送迎させるなど、社会に出ているものとして恥ずかしくて仕方なかった。
古畑アートギャラリーに至っては、そんな葵の謙遜する気持ちなんてまったくの皆無で。
美人だとかねてから噂のあった、『ディープブルー』の社長秘書の顔を拝めて満足、満腹と言った感じだった。
女性社員も、男性社員も皆頬をピンクに染めて葵を観察してしまっていらしい。
まさに、立てば牡丹、座れば芍薬、歩く姿は百合のよう・・・とでも言ったところか。
オーナーの古畑氏に至っては、随分とほれ込んでしまったらしく、帰り際駅に送る際、車に一緒に乗り込んでくる始末だった。
「本当に申し訳ありませんでした」
旭ヶ丘駅南口で下ろされた葵は、わざわざ車に同行してくださった上、降りて自分を見送ってくださる古畑氏に深く頭を下げていた。
その両手には、大きな大きな壺の入った桐の箱を抱えて。
「いやいや、君のような礼儀正しい人とはいつまでもお付き合い願いたいよ」
「そんな・・・・・・本日は無礼しどうしで・・・」
「そんな事ないですよっ!またいつでもいらしてください」
握手を求められて、こちらこそと・・・と両手でその手を掴む。
そんな友好の印にすら、力が入り、手をぶんぶんと振ってしまう。
あの、馬鹿朔也め・・・。
頭にはそれしかないのだ。
「どうせなら、社までお送りしますよ?」
そう言ってきた言葉を遮るくらいの勢いで、葵は断った。
「いえ、私なら平気ですし、この時間なら高価なこの壺をも守れるでしょうし」
片手にはもてない高貴なその箱の中身を確かめながら、葵は言った。
確かにまだ1時過ぎくらいで、帰宅ラッシュとはほど遠い。
日が暗いわけでもないから、男の一人歩きを心配するには少々過保護すぎる。
古畑氏としては、まだまだおしゃべりがしたかったのだが、ふぅっとため息をつくと、堅物なこの美麗男子を見送った。
「では、また」
「はい」
葵はとにかくすぐ帰ってアイツに一言物申したかった。
だから、古畑氏とも早々に別れを告げると、一回も振り返らずに駅の階段をトントンと上っていく。
その辺りで、既に何かおかしいことにきづく。
どうやら、人がだんだん増えてきているようだ。
どうしたって言うんだ・・・。
何か事故でもあって、一本電車が無かったんだろうか。
そんな事を考えながら切符売り場に並んでいると、腰の辺りに思い切り強い衝撃がくる。
「すみませんっ」
女子高生くらいの女の子のカバンがあたったらしい。約束でもあるのか、走りさる女子高生が振り返りながら大きな声で謝ってきた。
あれでは、再び同じ事をしてしまいそうだ。
とにかく壺が無事なのだ。何も支障は無い。
葵はコクッと少し微笑んでうなづいた。
女子高生がキャーッと騒いでいたなんて、切符を買う番がきた葵は知らないことなんだけど。
「三番線〜、三番線列車が参ります」
アナウンスが継げたのは隣の線だった。
その間にも人はだんだんプラットホームに集まってくる。ここはこんなに人が多いところなのだろうか。
「あ!」
ある一つの打開策に行き着き、葵は大きな声をあげる。
並んで電車を待っていたサラリーマンがちらりと振り返ったのを見て、一人気まずそうに顔を背けたのも彼だけど。
そう、何故お昼時である今、この旭ヶ丘が混みあっていて、そして自分の社のある大久保へあがる電車が混みそうなのかが、葵はすっかりわかったのだ。
それというのも、この切っ掛けをつくったのも、自分と朔也だったから。
先月オープンした、レストランや、アミューズメントパークの詰まった『キュア』と言う高層ビルのCMを担当したのは、ついこの間のことだ。
もともとメディア大注目の場所だったため、大いに電波を使い大たい的に宣伝していったところ、これが見事あたり、その中でもレストランは世界有数の三ツ星レストランのシェフが競い合うようにしてつくったメニューがおかれていて、それでいてリーズナブルなお値段と言うこともあって、OL、サラリーマンや、奥様がたから、中高生にまでものすごい人気をあげている。
それがある場所が、旭ヶ丘なのだ。
会社や工場、学校などの大型施設が立ち並ぶ大久保から、旭ヶ丘までお昼休みを利用してご飯を食べに来ていても不思議じゃない。
そして、今は1時を少し過ぎたところ。みんな会社や学校へと戻ろうとわれ先にと乗り込んでいるのだ。
その混みよう、まるで朝の通勤ラッシュ。
手にもった高級な品を見て、葵はため息をついた。
これまで壊してしまったら、あいつに何を言われるかわからない。いや、仕事以上にそれに私情を持ち込んで、あれよあれよと何かしら文句をつけてくるはずだ。それだけは避けなくては。
箱をそっと持ち替え、もっときっちり抱えると、四番線にきた電車に乗り込んだ。
思ったとおり、みな四番線の列車に乗り込み、中はすっかり満員状態となってしまった。
せめて荷物だけでもイスにおきたかったのだが、この混みようじゃ文句も言えない。
まさか下に置いたり、頭上の網に置くわけにもいかない。ドア付近の柱に腕をまわし、両手で箱を抱え、身体を固定した。
人がまだ少ない車両を選んだにも関わらず、車内は恐ろしいくらいに込み合っていて、人の吐息が触れるどころか、身体すら密着している。
血液型A型で、少々潔癖症のある葵はおのずといつもドア付近になってしまうのだ。
電車が滞りなく走っていた瞬間、葵の下半身に嫌な感触が走った。
始めは何かの勘違いかとも思ったが、どうやらそれは手で、しかも故意に葵の身体を触っている。
女性の痴漢もいるというけれど・・・・・・これは確かに男の手だ。
ゴツゴツとした大きな感触が、自分の肌に触れていることでわかる。
これも・・・・・・あいつに慣らされたせいなのだろうか。
そう思うと少し尺だ。
男の自分に触って何が楽しいのだろう、そう思うのだが、毎日毎夜、好きだの愛しているだの言われながら、さも嬉しそうに自分を抱く男を見ていると、その疑問をちゃんともっていられないときがある。
だからと言って葵だって、ただ触られるだけじゃない。
足元を確かめると、確かにそこには革靴が見える。
足のサイズ、28〜29センチといったところだろうか。男の足だ。
見るからに高そうな作りの靴だとわかる。何せ、誰かさんや自分と同じブランドのものだ。
金持ちや、会社での地位が上な程こういった趣向があると聞く。会社での仕事のトラブルや、妻とのいさかいを理解し、慰めてくれるのはやはり同性ということなのだろうか?
「ぁっ!」
生ぬるい吐息が、葵の敏感な耳朶にかかったのだ。
思わず漏らしてしまった声は、丁度電車音と被りまわりの人には聞こえなかったみたいだけど、周りよりもより密着している後ろの変態男にはなにがしか聞こえたらしい。
気持ち悪さを感じ、ドアの方へと進み出るが、その手もしっかりついてきている。
始めはグレーのスーツの上から、割れ目にそって後ろから撫でているだけだったその手は、葵が苦痛で顔を歪めるたびに更に奥深く進んできた。
「・・・・・・っ」
恐くて声があげられないとかではなく、単に男のクセに痴漢くらいでどうのこうの言いたくないというのもあった。
しかし、それ以前に痴漢にあったなんてもし・・・もしも朔也にばれたときの事を考えると・・・違った意味で恐怖が身体を走る。
絶対、同棲が決定になってしまう・・・。
もしや、あの男・・・それを狙っていたのか?
そう思うとイライラしてくる・・・。
「っふ・・・・・・っ」
それまで遊んでいた指が、何かの意味をもって葵の前へとまわってきた。
ここまできたら、本当に犯罪レベルだ!
なのに、なのに・・・・・・回避したくても、できない理由が葵にはあった。
そう、葵の両手は、今一番大切なものでふさがれているのだ。
回避したくても、両手にもっている壺を手放すわけにはいかない。まして、落として壊すなんて言語道断。
堅物なしかめっ面を、さらに悪くして言葉だけでも言い返そうと、葵は首だけで振り返った。
「このッ・・・・・・」
そこまで言って、言葉に詰まる。
変態ヤローとか、痴漢だとか、訴えるぞとか言いたい言葉はいっぱいあったのに。
何せ、そこにいて自分の身体を好き放題触っていたのは・・・。
「・・・・・・・・・なん・・・で・・・・・」
信じられない、信じられないっ。
今、会社でせっせと仕事をしているはずの社長が、なんでこんな所に。
否、なんで、じゃない。
理由はわかってる。この人は、俺を着けてきたんだ。
「社長室は嫌・・・なんでしょう?」
信じられないっ。
「・・・・・・馬鹿・・・社長・・・っ」
この場ですぐに罵ってやりたいのに、あまりの出来事に頭がショートしてる。
真っ白になって呆然とする葵の前に手をだした朔也はニッと笑うと、そこをきゅっと握った。
「んぅっ・・・」
「あんまり声出すと、ばれちちゃいますよ・・・・・・葵」
だ、誰のせいでだと思ってるんだ―――ッ。
葵はなおも苦しい姿勢で首だけを反転させて朔也を無言で睨みつける。
「・・・・・っ」
「挑発的な目・・・・・・すごくそそります」
もともとストイックな印象の強い葵の目は、いまや陵辱されて卑猥な色に光っている。
この乱れた時と、乱れる前の違いが、より朔也を刺激するのだ。
「やめ・・・・・・ろ」
消え去りそうな声で、願いを伝えても、この男にはまったくやめる気はない。
むしろ、かちゃかちゃと言う音を出しながら、慣れた手つきで、外しなれたベルトを緩めていく。
「ねぇ・・・今まで誰かに電車の中でこんな事されたことありますか」
ベルトを周りの人にばれないように、完全に外しとると、朔也の手は、まさか思いもよらなかったスーツの中へと入ってきた。
ごそごそとジッパーを下げ、ボタンを外し、その少しの隙間に長く逞しい男の指を捻りこむ。
「・・・・・・な・・・い・・・・・・っ」
「嘘ですね」
きっぱりといわれ、言い返す言葉も無い。
そう、葵は今までも電車の中で確かに身体を触られたことがあった。
だが、その時はそれとなく移動したり、言い返したり、男らしくそれを阻止した。
何せ、両手も使えましたから。
今とはまったく状況が違う。
「ふっン・・・・・はっ・・・」
少し痛いくらいの圧力で、葵自身を握られ、切ない声をあげる。
「俺は俺以外の貴方に触れた万人を許しません。必ず見つけて殺してやる。でも、その前に・・・・・・貴方をこんな悪の巣窟で会社に通わせるわけにいかない。ねぇ、俺と一緒に住めばいいじゃないですか」
上から与えられる刺激だけで既に半勃ち状態だった葵は、それを悟られたくなくて、狭い空間の中、必死に足をくねらせてそれを阻止する。
「・・・・・嫌・・・だ・・・ぁっ」
その拙い動きがあまりに可愛くて・・・・・・欲情する。
「そんなに苛めて欲しいんですか?」
年下の男に抱かれると言う行為に、完全に慣れたわけじゃない。
まして、こんな場所でこんな事をされ、許しを請うなんて、葵には出来なかった。
「・・・・・・貴様っ・・・」
普段、外では社長と秘書と言う面子があるため、朔也が何をしてもたいていのことは理性的にかわす葵が、ついつい怒り余ってそう呼んでしまった。
まぁ、そりゃそうか。
何せ、恋人になぜか電車ないでセクハラ痴漢されてるんだから。
まったくの不合意で。
もし、電車内でそんなことをする趣味が朔也にあったとして了承を求めてきても、葵がOKするかどうかは別だけど。
何せ、夜の営みに関しての葵の考えはいたって真面目だから。
何度身体をつなげたかわからない相手とのセックスでも、場所はやっぱりベッドしか嫌だと言うし、電気は消すほうがいい。
そんな葵の要望は大抵が却下されちゃうんだけど。
別に、朔也がアブノーマルセックスを好むわけじゃなくて、単に葵を見ると、どこでもいつでも何度でも発情できちゃう男だから。
「ねぇ、可愛くおねだりしてください。そしたら、やめましょう」
おねだ・・・り・・・だとぉっ!?
息があがり、まっすぐ立っていることがやっとの葵は、身体を支えるために柱を挟んでいる肘にグッと力を入れ、震える足を支えた。
「・・・・・・くだらない・・・事言ってないで・・・っ・・・ぁっ」
「『くだらない事言ってないで』・・・なんですか?」
朔也は葵をからかいながら、葵の先端を人差し指で擦る。
普段は意地悪なくらい葵を快感の波にのせ、達かすか、達かせないかの所でせきとめて弄ぶのが趣味の朔也なのに、今日は違う。
一刻も早く葵に欲望を放たてようと、ひっきりなしに葵の性感帯を刺激していく。
そして、それをするものかと、葵の理性が拒むものだから、いつもと同じくらいきつい状況だった。
「くぅっ・・・・・・」
葵が思い余って腰をピクッと後ろに動かすと、密着している男の下肢があたる。
朔也も大好きな葵を触って反応しないわけが無く、電車の中だと言うのに、ふしだらにも大きくなっていた。
葵は羞恥で耳まで赤くして、その存在を忘れようとした。
だけれども、葵が恥ずかしくなると、耳の後ろが赤くなることは既に知っている朔也は、その反応を見逃さず、すかさず舌を葵の耳へと近づけ、舐める。
「んっ、ひゃっ・・・」
「俺の入れたくなったでしょう。貴方の大好きなものですからね・・・」
後ろに腰をつけられて、軽く揺さぶられる。
「んぅくっ!!」
再び朔也の子供のような笑い声が聞こえた。
「淫らですね。まだ、触ってるだけですよ・・・?」
そういいながら、だんだんその指は後孔へと向かっていく。
既に葵の先走りの蜜でぬるぬるになっている指は、滑らかに葵の腰のラインを移動していく。
「ひゃあっ・・・・・も・・・あっ」
ズクンと言う響きを出しながら、指は性急に葵の中に入った。
毎晩抱いていた身体だけれども、昨日は触れていないそこは、やはり収縮していて、一応滑りはあるとしても、葵の身体をガクガクと震えさせた。
「くうっ・・・・・・朔也ぁ・・・っ」
消えるようなかすかな声の、甘い響きで名前を呼ばれ、朔也は余裕の無い表情を浮かべる。
どうして、まぁ・・・この人は。こんなにも俺を発情させるんだ。
初めて見たときなんて、その姿を見ただけで抱きたい、泣かせたい衝動にかられた。
だからこそ、俺だけがこんな気分になっているわけじゃないのが、わかる。
だから心配なんだ。片時も傍を離れたくない。
一緒に暮らす案は前前から考えていた。けれど、その話を少し出すたびに、葵はハナから拒否してきた。
社会人としてのけじめ、とかなんとか適当な理由をつけて。
「葵・・・。俺と一緒に暮らすって言えよ。そうすれば・・・・・・」
「・・・・・・・・・やッ・・・っ」
指が葵の中の肉壁を擦る。既に何十回、何百回と葵を抱きつづけている朔也に、葵の感じる部分を探し当てることなど造作もなかった。
ただ、葵は、立ったまますると言う行為事態に抵抗があるため、突き上げられるたびに、転びそうになり、そのたびに、電車のガラス戸に曇りをつくっていた。
「そんな話・・・・・・こんな所で・・・する・・・なっ・・・ああっ」
「じゃあ、どこでならいいんです?ホテルですか?社長室ですか?貴方はいつだってそうだ。この話をすると、後で考える、とそればかり。もう少し真剣になって考えてくれませんかっ」
本当に周りにはこの会話は聞こえていないんだろうか。そう心配になるくらい、朔也の声も、行動もだんだん大胆になっていく。
それに比例して、葵の足の震えも、喘ぎ声も、漏れる吐息も多くなってしまうんだけれど。
葵は、何も返答できず口をつぐんだ。
葵がここまで頑なにそれを拒んできたのは、本当は恥も外聞もまったく関係なかった―――自分のことはどうでもいい。
ただ、朔也は社長で、将来有望で、今だって取引先の奥様方やキャリアウーマンの人たちを虜にしてしまう器をもっている。
そんな人の傍にいるのが、男の俺って・・・・・・いいのか。
自身を卑下するわけじゃない、ただ・・・ただ・・・。
「あぁっ・・・んんっ」
無言で俯いた葵の下肢を、朔也は痛いくらいの刺激で親指と人差し指で根元を押さえ込む。
電車の中でこんなことをされているという不安と心配と、羞恥と快感が混ざり合って、頭が真っ白になる。
「ふっ・・・ひゃっ・・・駄目・・・やめ・・・ろ」
「強情な。早くおねだりするんですよ、俺と一緒に暮らしたい、と」
「・・・・・・嫌・・・・・・だっ・・・」
相変わらず頑固な葵に痺れをきらした恋人は、後孔に挿していた人差し指に親指を入れ、孔を広げる。
「・・・・・・くぅ・・・っ」
刺激に必死に耐えながら、薄れていく理性の中最後の抵抗を見せる。
落とすまいとしてきた両手の箱も限界を迎えている。
けれど、今のまま、あいつの好きにはできない。
葵が悩みに悩んでいるとき、神は葵に見方したのか、車内アナウンスが葵の気分とは違えて軽快になった。
「ご乗車ありがとうございます。次は〜大久保、大久保」
葵のむいている側ではないドアが開き、一斉に乗客たちが降りていく。大半・・・いや、この車両の全ての人が、どうやら大久保で降りる人たちだったようだ。
もちろん、それは葵たちも同じ事。
葵は座席に箱を置き、他の人にばれないように雑踏にまじってズボンとベルトを直すと、箱を再び抱え、降りようとした。
しかし、その葵の腕をがっちり掴んで、降りるのを邪魔する男がいた。
「朔也っ」
既に車両には誰もいない。早く降りなければ、ドアがしまってしまう。
葵は無言で葵の腕をとりつづける男を今だ潤んだ瞳でキッと睨んだ。
これ以上の暴君を許していられるかっ。
「ドアが閉まります」
「あっ」
プシューッと言う、軽い音を立てて、ドアは無常にもしまってしまった。
葵は朔也と向き合うと、正面きって怒りを伝えた。
「お前・・・・・・一体何を考えてるんだっ。車内で・・・しかも降りずに、どうするつもりなんだっ。社長として自覚があるのかっ」
社長と言う立場は、社内のどの社員よりも忙しいものだ。
こんな風に、勝手な用事で一時間、二時間抜けられるような業務じゃない。
「貴方が・・・葵が同棲をみとめてくれないからじゃないですか」
子供みたいに拗ねて、朔也はフイッと横をむいた。
「・・・・・・それは」
話してしまおうか。自分の胸のうちを。
正直に伝えたほうが、不安から脱せるかもしれない。
「まさか、本当にこんな風に電車で触られるのが好きなんじゃないですよね?貴方はこんなにも感じていたし・・・」
まさかの暴言に、葵は顔を真っ赤にして怒る。
「ばっ・・・・・・馬鹿か、お前はっ。あれはお前だからで・・・・・・っ」
「俺だから、ですか」
いきなり機嫌のよくなった声が聞こえて、葵はますます真っ赤になっていく。
だって、よく考えたらこんな公共の場で、すばらしい愛の告白をしてしまったようなものだ。
「そうですよね、貴方は俺以外の男を知らない、わけですし」
「〜・・・・・・っ」
どうしてこうも、この男はこんな恥ずかしい台詞を吐けるんだ。
・・・・・・相手が・・・・・・俺でなくても・・・・・・言うんだろうか。
いや、言ってきたんだろう。
いや、今も言っているのかもしれない。
二十台も中盤にきた、俺が、こいつの傍にいるメリットって・・・なんだ?
「俺はお前に・・・・・・何もしてあげられない」
子供も産めない、結婚も出来ない、まして公言することも出来ない。
そんな俺が・・・お前の傍で生きていいのか?
「何言ってるんですか?」
珍しく心配そうな朔也の声がする。
「だって・・・・・・お前の将来の足をひっぱるかも・・・しれない存在だし」
24歳と25歳は違う。
まして、社長の器があるお前と、多少動ける俺の差はもっとだ。
劣等感なのかもしれない。同じ男として。
「馬鹿を言わないで下さい」
きっぱりとした朔也の声が聞こえた。
「俺が永遠に傍に置きたいと思うのは貴方だけだ。例え、世界が反対しても」
朔也はそういいながら俺が両手に持っている箱を取り、座席に置いた。
俺の空になった手を掴むと、朔也の胸へと導いた。
「・・・・・・・・・」
葵の顔が再びピンクに染まってしまうほど、そこはどくんどくんと波打っていた。
緊張してる…?こいつが…?
七年も付き合ってる俺に?
「……なん…で…?」
自分の心臓も早くさせながら、俺は朔也を見つめる。
「毎日貴方に恋してるんです」
当然のように朔也が言った。
けど、俺の右手は気づいてる。
また、心臓の動きが速くなったのを。
「貴方に同棲の話を持ち出し断られるたび、これでも悲しんでたんですよ。早く、俺の元に来てください、早く俺をもっと受け入れてください。傍にいてください、俺に……余裕を持たせてください」
社長の仮面も、秘書の立場もここでは関係ない。
誰もいないんだ。
誰も。
一人の人間になってぶつかってくる朔也を、俺は抱きしめた。
胸元に心臓がくるのがいつも癪だったけど、今は心地よい。
「馬鹿か、お前は…」
余裕がないのはいつもこっちで、年上の貫禄なんてさっぱりだ。
いつも劣等感感じて、いつもいつも心配で。
なのに、お互い……何やってるんだ。
お互いが、お互いを思いあうほどに、すれ違う。
恋愛っていうのは、何年たっても何十年たっても、何百年たっても…いつも摩訶不思議なものだ。
昔からこれは続けられてきたこと。
男も女も関係ない。
そこに、誰も比べられない、何かがあるかどうか。
恋愛はそこなのだ。
「俺に恋してください」
七年の繋がりがある朔也から、今更言われるなんてちょっとおかしかったけど、俺は笑わなかった。
「してるよ……ずっと前から」
俺がそういうと、朔也は満足そうに笑った。
「小久保〜小久保〜降り口左です」
数分後、車内アナウンスで、俺たちは三つも駅を過ぎてしまったことに気づく。
「……ったく、お前のせいだからなっ。今日は会議が入ってるんだからさっさと…」
社に戻るために反対側のプラットホームに移動しようとした葵は、時計を見ていつもの葵に戻ったのか、ぶつくさ文句をいっている。
「今日は休暇だ」
後ろから着いてきた朔也が、どう考えても今決めましたと言う感じに呟いた。
「は」
呆気に撮られる葵は振り返ると、その身体を抱きこまれ、駅の外へと繋がる階段に連れ込まれる。
「ちょ、ちょっと朔也っ!社長!」
慌てて動きを静止させようとするけれど、体格が全然違う葵ではまったく敵わない。
休暇ってつまり、つまり……!
馬鹿社長―――っ!!
「いい加減にしろっ、朔也。今日の会議は……」
「気づいてたか?」
「…は?」
「お前の声聞いて、車内の男全員欲情してたぞ」
な、なにーーーーっ。
やっぱり声、みんなに聞こえてたんだぁ!うわぁーっ。
い、生きていけない…。
自分の腕の中で急に大人しくなった葵に熱烈なフレンチキスをお見舞いした。
「もちろん俺も、だ。だから休暇。これから昨日会えなかった分セックスするぞ?」
既に、先ほど達かされなかったせいと、今のキス、後精神的ショックでぐったりしている葵に拒否権など無い。
「社長命令だからな」
「うっ………」
傲慢で我侭だけど、どうやら俺は心底この馬鹿社長に惚れているらしい。
俺も相当な馬鹿だ。
恋の病か何かに冒されてるな。完璧に。
一生治らない病だと思うけど。
「一緒に住みましょう、葵」
今度は少し冗談めかして言われた。
葵は少し考えてから、恥ずかしそうに呟いた。
「……考えるよ」
少しだけ返事の変わったその回答に、馬鹿社長が嬉しがったのは言うまでも無い。
葵が支えられて向かったホテルは、既に一昨日から予約済みというのを後日ホテルマンに聞いた葵が、同棲の事は少し、もう少し一人で真剣に考えようと思ったのは言うまでも無い。
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