小説のぺぇじへ。 | −2−

● 水曜日の秘密のお仕事  ●

 財閥解体なんてした日本でも、やっぱり金持ちと貧富の差はあるもので、けれど僕はそんな差をちっとも汚いなんて思ったことは無いんだ。
 だって、僕はそのおかげでこの人――今僕を後からだっこして、天使のようなお顔で悦んでおられる君島 時緒様に出会えたから。
「ほら、言ってごらん。教えたことをちゃんと言ったらご褒美あげるからね」
「んっ…はっぁ…すみま…せん、言え…なっ…ああっ」
 訂正。ただ、だっこしてるだけじゃないです。
 さっきからずっと僕の中には、時緒様がいて、僕を突きあげては、羞恥にまみれたセリフを言わそうと焦らす。
 抱えられる姿勢により、いつもより奥までその熱棒を挿れられ、霞は息も絶え絶えに、金持ちで自分よりも年下の時緒様のお願いを必死にきこうとがんばるが、やっぱりそんな上手くは言えない。
「…チャンスはラスト一回。霞明日も会社だったよね?いいのかなぁ、また午後出勤になっちゃうのかな、それともお休みかな」
 ダメ…!
 明日は大切な会議が入ってるのに、あれをさぼってしまったら今度の藤堂コーポレーションとの新プロジェクトを降ろされてしまう。もともと社長秘書だから、ほとんどプロジェクトには参加させてもらえないのに、今回は無理を言っていれてもらったのだ。その大事な会議を無断欠勤してしまったら、今度こそ信用問題で、解雇になってしまうかも…。いくら親友の会社で働かせてもらっているからといって、仕事は遊びじゃない。
「やっ…やです…お願っ…時緒様ぁ」
 振りかえって懇願しようにも、微動だにすれば身体に甘い刺激が走る。身体全てを占領されていて、それでなお言葉すらねだるこのお坊ちゃまは、僕の最愛の人で、僕の…雇い主でもある。
「じゃあ、言うんだ。霞は良い子だから言えるよね」
 焦らされるような下半身の刺激に、瞳から涙が零れ落ちる。これが二十五歳の男の痴態かと、情けなくなるけれど、毎晩眠る暇さえなく身体を求めてくる時緒様の情熱は、すさまじいものがあるのだ。
「……僕は一生時緒様の…モノ…です…ぁっ…ああっ」
 一言一言言うたびに、座った体制のまま腰を突き上げられる。
 途切れ途切れになりながら、必死に紬だした言葉は、ここのところ毎晩のように言わせられている言葉だ。
「それから?」
 攻めの方が体力を使うと言う昔聞いた情報は、本当なのだろうか。
 時緒様を見ていると、疑いたくなってしまうのだけれど…。
「時緒様…ぁ…以外……見ませんっ…」
 時計がチラリと見えたけど、時刻までは読み取れない。
 何時なんだろ。明日の会議…ああ、もう…!時緒様のバカ、絶倫ばかっ!
 本人には言うことのない悪態をつきながら、僕は時緒様の言わせたい言葉を必死に言う。
「時緒様以外……んんっ…ぁ…に、ここを…触らせませんっ」
 ここ、と言うとき、自分のを握るように、と躾たのも時緒様だ。
 ちゃんとそれも忘れずにやると、時緒様が嬉しそうに話しかけてくる。
「そうだよ、そして…この場所に、俺以外の欲望を突っ込まれでもしたら、犯し殺すからね。覚えておいて」
 そんな恐れ多いこと、僕には出来ません…って言ってるのに。
「はいっ…時緒様っ…ああっ」
 背中を時緒様の胸にぴったりともたれて、前も後も限界だと訴える。
「よしよし、じゃあ、霞が欲しいのしてあげるからね」
 二時間近く挿れられて、甘い刺激しか貰えなかった僕への開放は、予想通り朝方まで続いた。

 藤岡 霞。その少年がこの君島家に住みこみで働くようになったのは、まだ時緒が小学校五年生の時だ。
 仕事、仕事と世界を飛びまわる父親、そんな夫に愛想をつかし旅行だなんだと家を開け放し、ほとんど家に寄りつかない母親。不憫に思ったのか、そうじゃないのかわからないが、今は亡き時緒の祖父である藤緒が、ある日少年を連れて帰ってきたのだ。
 その時まで、自分の家が怪しい仕事にまで手をつけているとはしらなかったわけではないが、明確になったといえばそうだ。
 株や、会社やショッピングセンターなどを経営する君島家の副業が、金銭に関わる仕事だったとわかったのがこの日なのだ。
『時緒。ほら、これがお前の遊び相手だ。好きなように使うが良い』
 そう言って、あのしわしわの手で包み込まれた少年を、藤緒は時緒に差し出した。
 少年の名は、藤岡霞。
 時緒より少しだけ年上のように見えるが、その怯えたように震える目は琥珀色に揺らめき、白い肌は、自分は小学生ながら、触りたいと思ってしまうほどキメ細やかで、弾力がよさそう。しかし、今は少し痩せ過ぎで透き通ってしまいそうだ。
 長く伸ばされた黒髪が、重くその端正な顔にかかっていて、もったいない。切ってしまわねば、そう思った。
 与えられた少年は、無言で下をずっと見ている。
 俺と視線を合わそうともしない。
 時緒はその少年の顔を自分に向かせるように、あごを手で動かした。
 身長から言えば、まだ当事の霞のほうが大きかったから、対して上げる必要も無かったが、下をうつむいていた霞には、身体を怯えさせてしまうほど、驚いたことだった。
『お前、名前は』
 尊大な言い方で聞けば、霞はますます黙り込んだ。
 涙が零れそうなのか、それとも地でそうなのか、潤んだ瞳が印象的だ。
『……藤岡 霞…です』
『よし。今日からお前は俺のペットだ。いいな』
『…はい』
 そのつもりで連れてこられたことなど、わかっていた。
 だから、黙って返事をしたんだ。
 けれど、目の前の少年がものすごく偉そうで、ものすごく自信たっぷりで、自分にないものばかりで、そう返事をするしかなかったのかもしれない。
 二千万円のおもちゃ。
 藤緒様は、僕のことをそう呼んだ。
 そりゃ、そうだよね。中学生の俺が…平成の今のご時世、親に売られてしまうなんて。そんな俺の価値は、おもちゃでしかなかったのかもしれない。
 そんな俺を所有物であろうが、なんだろうが傍に置いてくれたこの少年、時緒に僕は次第にひかれていったんだ。
 時緒様も僕を好きだとおっしゃってくれる。
 それだけで十分だった。
 昔だったらね。
 でも、今は・・・・・・違う。僕も、時緒様も大人になり、仕事をしている。僕は今年で二十五歳だし、時緒様も二十歳になられた。
 恐怖は時緒様が中学生くらいのときからきて、確信したのは高校生のとき。
 学校の友人たちと笑いあいながらも、副業の会社経営をこなし、休日はスーツを着て海外へも出張するその凛々しいお姿。
 ああ、時緒様にはもう僕みたいなおもちゃは必要の無い年齢なんだな、とふと思ってしまったから。
 時緒様は僕を好いていくれていらっしゃるから、そんな言葉言わないだろうけど・・・でも、二人の関係を聞かれたとき、なんて答えるかはわからない。
 僕がお金で買われた商品である以上は。
 だから、僕はこの立場を抜け出したいと思い始めたのだ。
 だから・・・僕は五年前。この屋敷に来てから初めて藤緒様と時緒様にお願いしたんだ。
 働かせてください・・・と。
 しかも、君島系列ではない会社に、僕自身の実力で入りたい、と。
 藤緒様は僕の独立に大いに賛成してくれた。藤緒様も、時緒様が僕にべったりなのを心配しておられた人のお一人ですから。
 まさか、肉体関係があるなんて思いもしないでしょうけど。
 それに反して、時緒様はお怒り狂い、僕をどうにかこの屋敷に縛り上げようとしたのですが、藤緒様の説得により、なんとか僕は五年前から、親友の立ち上げた安斉LTDに就職することが出来たのだ。
 そんなわけで、僕は五年・・・ほとんどまともに寝た記憶がないんですけど。

 遅刻まで後数分といった時間。霞はエレベーターを待つ時間ももったいなく、高層ビルの十一階に備えられたデザイン課のオフィスへと、階段を駆け足で上っていた。
 今のご時世階段を使う人なんてほとんどいなから、ましてこんなダッシュしてる霞の姿は、少々人の目を引いていた。
 しかし、そんな事を言っている場合ではない。
「お、遅れてすみませんっ」
「おはよう。霞」
 慌てて開いた扉の中にいたのは、この高層ビルの社長であり、僕の高校時代からの親友である、安斎 竜馬。二十歳で立ち上げたこの会社は、いわゆる広告会社で。始めた頃は小さな広告出版からだったものが、今や世界のテレビコマーシャルまでこなす人気広告会社だ。傍で見て働いていたから、竜馬のすごさは肌で感じている。
「あれ?竜馬・・・・・・社長お一人ですか」
 デザイン課には、総勢八名のスタッフいる。女性五名、男性三名。そして、今は藤堂コーボレーションと言う大手の依頼をうけることになり、社長自ら顔を出しに来ていて、俺はそのお手伝い、みたいな感じなんだけどね。
「遅刻にはまだ早いぞ」
「へ?」
 階段をいくら勢いよくあがってきたからって、そんな早くは着かない。
 それにしても、誰もいないのはおかしい。
 就職の内定が決まったときに藤緒様からいただいた、腕時計を見るが、いつもの出社時間の五分過ぎだ。
「俺の時計も、事務所の時計もまだ遅刻三十分前を指してるぞ」
「え、ええ?!」
 そういえばそうだ。事務所の時計はまだ七時半。会社には八時をめどにくればいいから。全然余裕だ。
「…時緒様だ……」
 そういえば今朝僕の腕を執拗にに弄ってたような。
 まったく子供みたないなんだから…。
「ん?なんか言ったか?」
「な、なんでもないっです!時計が壊れていたらしくて…」
 時緒様…というか、僕は君島家にいることも全て秘密にしてる。別に、君島家にいること事態はいいんだけど、それを他の人に説明するのはさすがに…できないから。
 親友の竜馬にも。絶対言えない…僕の秘密。
 実際、僕は時緒様のおもちゃで、ほとんど自由な時間がなかったから、そんな僕とこんな長年親友をしてくれた竜馬はある意味すごいと思ってしまう。
 すごく、イイやつなんだ。
「きょ、今日は藤堂コーポレーションとの打ち合わせですよね」
「霞」
「はい?」
「二人っきりの時くらい、敬語やめろって言っただろ。どこの世界に親友に敬語で話すヤツがいるっていうんだ…」
 僕が唯一敬語を使わずに過ごせたのは、学校に行っている間だけ。君島家では、僕が一番後に入ってきた使用人だったし、それに僕はおもちゃだったから、時緒様には必ず敬語でと藤緒様に言いつけられていたから。
 でも、本当のところ時緒様にはこの方が話し掛けやすかった。
 遠い、ずっと遠い存在だったし…。
 いつかは、離れる相手だと知っていたから。
 身体を何度重ねても、超えられない壁を自ら作り、一線置いて接してきたのかもしれない。
「ぼ…俺はここの社員で、社長秘書です。高校生の藤岡霞ではありませんから」
 微笑んで言う霞は、ここのどの女性社員とも比べられないほど美人だ。
 もともと真っ黒な黒髪が純和風な装いにし、琥珀色の瞳が洋風な感じを醸しだし、なんとも魅惑な少年であったのだが、二十歳を超え働きはじめた頃からその魅惑さは、魅了へと変り、つねに人の目をひくオーラを出しつづけていた。
 この青年が関わっているから、仕事を持ってくる顧客も少なくない。
 まぁ、その際、ホテルで藤岡君と二人っきりで会合をしたいなどと言い出した顧客は、丁重にお断りし、今後一切の自社との関わりを絶ってもらってきたが。
 それほど、霞は無防備で儚い、ガラス細工のような存在だった。
 安斉竜馬はそんな霞をいつも守り…そして慕ってきた。
 お家事情を一切話さない霞は、もう八年の付き合いだと言うのに、わからないことのほうが多い、けれど、霞を守れるのは俺だけだ。そう自負していた。
 巨大な君島の存在など知る由もない。
「じゃあ、今日飲み行こうぜ。アフターファイブはプライベートだろ?敬語使う必要もない」
 ファイルを忙しなく取り出しながら、まだ仕事の始まる時間でもないのに、始めようとするその性格は、いったい誰に似たものだろう。
 顔かたちは、たぶん母親に似たのであろうから、父親か?
 どっちにせよ、ずいぶん幸せに育てられたであろう印象をうける。
「夜…ですか」
 仕事が終わる時間になるたびに、竜馬からいつものように誘いをうける。
 やれ飲みに行こう、やれ食事だカラオケだ。
 しかし、霞にはそれら全てを断らなければならない、事情があるのだ。もちろん、その事情は……時緒様なのだけれど、そんなこと言えるわけがない。
 もちろん君島家にも時緒様にも、買ってくださった方が君島家のような場所で感謝はしている。時緒様とのことだって、自分は時緒様をお慕いしているし、時緒様も僕がお好きだとおっしゃって、毎晩身体を抱いてくださる。けれど…それと、他人に話して理解してもらえるか、どうかは別問題なのだ。
 竜馬の家だって、世間的に見れば裕福以上の家で、会社設立する時もお金に困ったと言う事はまったく聞かなかった。
 そんな家で育った親友に、金で売られて君島家に身売りさせられたなどと、話せるだろうか。
 否。
 無理に決まってる。
 霞は少しだけ小さく誰にもばれずにため息をつくと、いつもどおりの言い訳を並べた。
「ごめん、俺夜はいかなきゃならない場所あるんだ」
 夜の時間は、時緒様と・・・あともう一つ、時緒様にも秘密のあることで埋まってるのは本当のこと。
 やっぱりいつもどおりの反応を返されて、いつもどおり竜馬はきさくに笑って、その話題を終わらせてくれた。

「ただいま戻りました」
 君島家の裏門。使用人専門玄関からいつも通り入り、靴を整えてから一礼してそう言う。
 歴史も地位もある君島家のルールは厳しいと角界でも評判だけれど、そんなでもないと思う。
 そりゃ、当主である藤緒様がいらっしゃったら、みんな背筋に鉄の棒でもいれているかのように、シャンとして深々しく礼をして、使用人同士でも敬語を使う。
 けれど、お忙しい藤緒様が家にいらっしゃることはほとんどない。それは、時緒様のご両親も同じことで、時緒様の傍で過ごすことを強いられている僕でも、めったに会うことは無い。
 だから、今日みたいな家に時緒様以外がいない日は、みんなそれそれの仕事をさっさと終わらせると、離れの自室に篭ってしまったり、時緒様の承諾をとって出かけたりで、屋敷には、執事の楠木さんを始めとする数名しかいない。
 だから、こんな夜にわざわざ道路を一回りしなきゃたどり着けない裏門から入ってくる使用人は僕か、楠木さんくらい。
 もちろんそんな所に人影なんてあるわけもなくて、礼をしたり、挨拶の言葉をいったりするのは、時緒様にいつもおかしいって言われる。
 だけど・・・・・・これは、習慣とか、決まりだからとかじゃなくて。
 僕のプライド。
 時緒様にはわかっていただけない・・・僕の小さなプライドなんだ。
「遅い」
 廊下を進み、まずは着替えをしようと、自室である一階の一番奥の部屋に向かっていると、その途中の角に差し掛かったところで、時緒様の珍しく不機嫌そうな声がした。
「・・・申し訳ありません。時緒様。電車に乗り遅れてしまいまして」
 本当は違う。
 電車に乗ったら、後ろから嫌な感じがきた。
 手が、見知らぬ男の手が僕のグレーのスーツの下肢にスッと伸びてきた。
 ゾワッとした嫌悪感から、身体が萎縮し、男のくせに声が出なくなった。
 それを良いことに、双丘を撫でるだけだったその男の手が、大胆にも前に回ってきて、ジッパーを降ろす。
 小さく声を漏らせば、男の欲情した吐息が耳元を掠めた。
 恐いっ。
 咄嗟にあいたドアは、自分の降りる駅とは数個離れてはいたけれど、これ以上この電車に乗ってることは出来ないと思って、しまる寸前で降りる。
 思ったとおり、男は着いてこようと思っていたらしく、閉じたドアの向こうから、物欲しそうに僕のことを見ていた。
 通勤カバンを胸に抱え、こみ上げてくる恐怖をなんとか押さえ込む。
 そんな状態だったから、次の電車が三十分くらい後だったことに気づかなかったのだ。時緒様をお待たせするわけにはいかない、とタクシーを呼ぼうと思ったけれど、あいにく持ち合わせが少ししかない。
 もともとお金を持ち歩かない主義だけれど、タクシー代くらいならいつもあるんだけど・・・。
 ほとんど降りたことのない駅で、どうにかバス停を探し出し、着たバスに乗り込んだけれど、やっぱりいつもより十五分くらい、帰り着くのが遅れてしまったんだ。
 けど、そんな事言えるわけがない。
 だって、藤緒様は僕の事を恋人だとおっしゃってくれていて、僕の身体に誰かが触れるのを極端に嫌ってらっしゃるから。
「ねぇ、霞。俺が霞の嘘に気づかないと思ってるのかな?」
 ふいに頬に手を伸ばされ、目線を合わされる。
 時緒様と僕は十五センチ以上違うから、時緒様が屈むかしない限り、目が合うなんてありえない。
「僕は嘘などついておりません・・・」
 慌てて否定しても、時緒様は薄く笑っただけだった。
 時緒様は僕を叱るとき、必ず少し笑ってらっしゃる。
 だから、少しだけ時緒様の笑顔が恐いときもあるんだけど。
「じゃあ、ココを開けたのは誰?」
 ココと言われたのは、ネクタイもきちっと、ワイシャツは第一ボタンまで締めているのに、唯一淫らに開放された、下半身のジッパー。
「ぁ・・・」
 あまりに気持ち悪くて、閉じることすら忘れていたのだ。
 霞は一瞬真っ赤になり、そして青くなると慌ててそこを締めようとしたが、慌てると手が震えて上手く締められない。
「あの・・・駅で・・・トイレに行きましたから、そこで忘れてしまったみたいです・・・みっとも無くて申し訳ありません」
 ひたすら謝りながら、そこを締め終わると同時に、僕の両腕は時緒様の片手に掴まれ、わけもわからないうちに、上で固定される。
 壁に背中を押し当てられ、広い屋敷の廊下にトンっと言う軽く鈍い音が響く。
「俺言ったよね?霞の嘘なんかわかるんだって」
 相変わらず綺麗な顔で、僕だけにわかる不機嫌オーラを出しまくりながら、時緒様はじりじりとその身を寄せてくる。
 僕の耳元に唇を近づけ、吐息を少し意地悪っぽくかけたあと、その耳に直接掠れた声を注いでくる。
「誰か触ったんだ・・・ここ」
 時緒様の手が、僕の腹部あたりから、大人なニュアンスを醸しだしながらだんだんと下腹部にへと近づいてく。
 そして、止まった場所は下肢の少し上。
 さっき慌ててしまったジッパーの金具がある場所だ。
「と、時緒様、人がいらっしゃいますっ」
 一応言ってみるけど、時緒様はそんな僕の言葉なんて、聞こえないみたいだ。
 僕の首筋をねっとりとした濃厚な舌で舐め上げながら、手で弄りジッパーを下げていく。
「んっ・・・・・・ぁっ、時緒様、だめです。いけませんっ」
 言葉では一応抵抗してみるけれど、この屋敷にいる間は、僕は時緒様のモノだから、本当に逃げるマネは出来ない。
 それがわかってて、時緒様はわざと僕が嫌がる事をする。
「誰」
「ひゃぅ……」
 ジッパーを下げ終わり、その隙間から手を差し込まれる。
 冷たい時緒様の手が、さっきからの時緒さまの舌愛撫で熱の塊になってる僕自身を包み、強く握る。
「ここ開いたの誰?どこ?まさか、会社でだなんて言わないよね」
「と・・・時緒様・・・ぁっ・・・僕・・・本当に・・・」
 ここまできたら、嘘を付きとおさなきゃ後が恐い。
 僕は頑として口を閉ざす。
「五秒だよ」
「・・・ぇ?」
「五秒以内に言わなかったら、会社には退職願だしといてあげるね」
 えええっ!それは困る。本当に困るんですって。
 だって、時緒様はやると行った事はやる方なのだ。
 仕事は・・・・・・・・・絶対にやめるわけにはいかないし・・・。
「いーち」
「あ、あの・・・時緒様っ、僕会社は・・・」
「にー」
「違うんです、聞いてくださいっ!」
「さーん」
 駄目。言い訳無用って笑顔がそう言ってる。
「よーん」
「・・・・・・・・・電車で、です」
 恐ろしいカウントをしていた時緒様の声がピタリとやむ。
 なんだか、こっちの方が恐ろしいと思ってしまうのは、自分だけでしょうか。
 拘束されていた手が離され、時緒様が僕の部屋の方へと歩いていく。
「と、時緒様?」
「十回」
 再びな唐突の数字に、霞は首をかしげる。
「俺を十回いかせられたら、許してあげる。その痴漢を誘ったように、俺も誘ってごらん。出来るよね?霞なら」
 な、なんでっ!
 僕、痴漢の方を誘ったわけじゃないですよ。嫌で、嫌で逃げたのに、なんで僕が誘ったことになってるの!?
「あの、時緒様っ!僕はお誘いしてなんか・・・」
「でも触らせた」
 そう言われてしまうと否定できないけど。
 でも・・・帰宅ラッシュで満員電車で、身動きできなかったんです。
 いつもなら、違う車両に移動するくらいの余裕はあるんだけど、今日は本当にぎゅうぎゅうだったんだ。
 満員電車なんか味わったことの無い時緒様は・・・どんなに大変なものかわからないんでしょうけど・・・。
「誘ったんだ」
「ち、違いますっ。誤解です」
 どうして、どうしてそうなるんですかーっ!
 すたすたと僕の部屋の前まできて、事前に渡してあるスペアキーで中に入る。
 使用人であるのに、僕の部屋だけ屋敷内にあるのは、時緒様のお呼び出しがかかる回数が多いのと、時緒さまのご希望で。
「霞は僕のモノなんだからね。その身体のどこにも他のヤツに触らせちゃ駄目なんだよ。知ってるでしょ」
「・・・・・・はい。知ってます」
「なのに触らせた。・・・いい?霞。君はいるだけで男を発情させるんだから、今度から電車なんて危険な乗り物乗ることを禁ずるよ」
 じゃあ、会社はバス通いかぁ・・・。
 こっからの直通も一応出てるけど、時間かかるし、お金もかかるし。電車のがいいんだけど、ここで文句言ったら、きっと会社にいけなくなっちゃうし。
「明日からは、家の車で通うんだ。いいね?」
 それって・・・ご家族御用達の黒塗り高級車の事ですよね・・・。
「僕は使用人ですから、使うわけにはいきませんっ」
 両手を前にだして、とんでもないと言う顔で左右に振って否定すれば、時緒は何食わぬ顔をしている。
「嫌なの?じゃあ、どうせなら、霞専用の車をプレゼントしようか。運転手つきの。これで会議で遅くなった日もちゃんと早く帰ってこられるし・・・」
「駄目ですっ」
 主人の言葉を遮り、あまつさえ声を荒げるなんて使用人の立場としてあってはならないことだ。
 けれど、僕はどうしても、飛んでってしまいそうなほどのセレブ思考の時緒様の考えを止めなければならなかった。
「霞?」
 急に怒鳴った僕に、何か思惑があると思った時緒様は、再び僕のほうに近づいてきて、手を握る。
 やっぱり、時緒様の手は冷たい・・・。
 その手を握り返し、僕は笑った。
「時緒様。お心遣いありがとうございます。けれど、僕は男ですし、痴漢なんてめったにあることではありません。電車で大丈夫ですから・・・」
 お願い・・・これ以上突っ込まないで。
 僕は出来るだけ平静を装い、甘えるように時緒様にお願いをする。
「・・・お願いです」
「俺は、霞が何でそんなに電車が好きなのかわからないけど・・・しかたない。今回だけは見逃してあげるよ。ただし、今回だけは、ね」
「ありがとうございます!」
 よかったぁ・・・。
 だって、電車じゃなくなってしまったら、僕の秘密がばれてしまうじゃない。
 時緒様にも秘密のあの・・・事が。
「ただし、さっき言ったことは本当」
「さっきおっしゃったこと・・・ですか?」
 なんだっけ?何はなしてたんだっけ。
 えーと、痴漢にあったって話から始まって・・・。
 ああっ!!
「ほら、早くしないと寝る時間なくなっちゃうね。十回なんて久々だね。ほら、早く」
 十回と言う数に頭を悩ませつつ、僕は僕の部屋へと入っていった。
 こないだもそんなこと言ってたくせにぃ。

 「ぁっ…ふっ、時緒様ぁ…ん」
 僕の部屋は、僕が時緒様の玩具だからって特別仕様じゃない。だから、もちろん普通の使用人部屋で、狭くて小さい。
 僕には十分な大きさだけど、時緒様と二人で…こういうことするには小さすぎるベッドしか入らないんだ。
 洋風な造りの家だし、フローリングだし、ふとんはダメって言われたから、小さなベッドを与えてもらったんだけど。
 だから、本当に、僕はしがみつくみたいに時緒様を受け入れてる。
「時緒様…ここじゃ時緒様がお疲れします…お部屋を変えましょ…?」
 まだ半分くらい服を身に付けたままの僕は、脱がされたワイシャツの合わせ目を抑えて、提案した。
 うぅ…スーツ。しわしわになっちゃいましたよう。
 でも、ここでそんな話題だしたら、時緒様の事だから、もっと上等なスーツを買ってきそうだし…。
 それだけは避けたいから。
 そんなことを考えていたから、いきなり立ち上がった時緒様のふいをついたような問いに、僕は過剰に驚いた。
「霞、何か隠したいことでもあるんじゃない」
「ぇ・・・・・・?」
「この部屋でやるの…嫌がるよね。俺がこの部屋に入るのも」
「それは……ここは時緒様のような方がいらっしゃるような部屋じゃありませんし…掃除も行き届いていないかも…しれませんし」
 実際そんなことはない。
 どんなに辛くても、霞は掃き掃除、拭き掃除は必ず朝やっているし。
 確かに、時緒様の部屋に比べたら確かにこじんまりとしているが、ここも一応屋敷内の部屋。冷暖房管理はしっかりしてるし、空調も完備されている。
「霞……」
 ふいに名前を呼ばれて、ドキンとする。
「時緒様…?」
 栗色みたいな時緒さまの髪が、キラリと光って、やっぱり綺麗だなって思う。
「………じゃあ、僕の部屋に移動しようか。着替えしたらおいで。そうだね、今日は黒のメイド服がいいな。ストッキングもちゃんとね」
「は、はい…」
 そういって時緒様は部屋を去っていった。
 珍しすぎる大人しい時緒様は、僕にとって、恐怖でしかなかったけど。

 「ぁっ、あっ、時緒様っ、お願い…許してっ…あっ」
  時緒様に指定されたメイド服は既に敗れたり、白い液がついていたりでめちゃくちゃで、二度と使い物にならないと思う。
 時緒様はたまに僕にこうして人形のように着せ替えをして、情事を楽しむ。
 嫌…ではないのだけれど……このメイド服ですら、特注なのに一回くらいしか使いえないのを考えると、不経済すぎる…って思うんだけど。
 時緒様の金銭感覚は、僕とは違いすぎて。
「変なやつに触られた罰だよ……もちろん、その男にも罰を与えるけど」
「ぇっ!?…ぁっ…ああっ」
 足を大きく開かれ、ベッドに鎖で首と片足、片手を繋がれたまま、僕の中には時緒様の両の手の人差し指が押し込まれてる。
 中を掻き回すように、別々に動かされ、嫌といえば、指が増やされる。
「当然でしょう?俺の物に触ったんだから…もしかして、霞、触られたの嬉しかったの?感じたとか?」
 時緒様は感情を隠そうとはしない。
 いきなりぐるりと中の指を動かされ、後ろに仰け反る。
「ああっ」
「………ね、ほらちゃんと言わないと、朝になっちゃうね。霞、明るい時抱かれるの嫌いだよね。俺も霞が嫌がることはしたくないんだけどな」
 時緒様は正直だけど、嘘つき。
 だって、いっつもそういいながら、僕が嫌がることをして嬉しがってるんだもん。
『俺にしか見せない顔してるから』
 って身勝手なことをおっしゃって。
「僕…は、時緒様をお慕いしております……他の人は…嫌っ…です」
 だから、お願い…。
 今宵何度かめの懇願を口にする。
「本当だね?」
「…あっ…は、い…」
 指を抜かれ、濡れて音まで出しているその奥部に、時緒様は一気に熱望を押し込む。
「ふっ…あああっ」
 指とは比べ物にならないような体積に、圧迫され息が出来なくなる。
 何度受け入れようとも、どうしてもなれない瞬間。
 嬌声を飛ばし、すすり泣くように時緒様にしがみつく。
「十回目」
「ぁっ…も…ああっ…」
 声は掠れて、響きを失っている。
 それでも時緒様は、一回やるごとに自らの欲望を引き抜き、僕に同じセリフを言わせて夜中…いや、朝まで翻弄した。
 こんなことをしなくても、僕は時緒様以外見ないのに。
 そうおっしゃっていても、時緒様は信じてくださらない。
 やっぱり…僕は、秘密を実行しなきゃいけないんだ。

 「時緒様……今日は定例会議の日なので、夜は遅くなりますから、お先にお休みください」
 朝目覚めて…と言っても、寝たのはついさっきなんだけど。
 とにかく、目覚めて時緒様にお風呂に入れていただいた後、僕は出勤の準備に取り掛かった。
 洗濯したてのノリの張ったライトグレーのワイシャツ、モスグリーンのスーツ。そして、千鳥柄のネクタイを締めると、後ろで再びベッドにもたれている恋人に言った。
「……どうしても、それって出なきゃいけないもの?」
「……会議ですから」
 本当は違うけど。
 僕のたった一つの秘密の水曜日。
 火曜日の朝はいつもこんなやり取りしてる。
「髪乾かしましょうか?」
 一緒にシャワーに入ったのに、髪も乾かさないでさっさとベッドに潜り込んでずっと拗ねた様子だったのだ。
「…縛って、拘束されたくなかったら早く行くんだ」
 そういって、やらない時緒様は、意外と常識人なのかも。
 成長したのかな。
 幼い時から見てることもあって、手にとるようにわかるんだ。
 昔との違いが。
「はい、じゃあ行きますね」
 笑って部屋を出ようとすると、ずっとベッドの王様になってたのに、立ち上がり、僕が開けた引きドアを押し戻して締めた。
 そのまま何もしゃべらないから、不思議に思って振り向けば、唇を奪われる。
「んふっ……んぁ」
 生暖かい温度と、蕩けるように甘い舌が忍び込んできて、歯をがっちり閉めていても、いつのまにか緩くなってしまう。
 時緒に躾られた霞は、たやすくその花を開いてしまう。
「……遅れ…ますっ」
 謝りつつも、名残惜しい口を離そうとすると、首の後ろに手を回されて、さらに奥へと踏み込んだキスを与えられる。
「ぁっ……んんっ…」
 飲み込むようにと注ぎ込まれた唾液が、限度量を超えて端から零れ落ちると、制裁だと言わんばかりに、唇を強く噛まれる。
「ふっ…」
 痛みに少し顔を歪めれば、今度はそこを労わるように欲情して濡れた舌で優しく舐めてくる。
 そんな刺激が恥ずかしくて、もどかしくて。下半身を近づけられれば、耳まで赤くしてしまう。
 こんなこと、いつもしていることに比べればなんでもないのに…。
 でも、やっぱり好きな人が自分といて、欲情してくださるってのは…嬉しいことだから。
 しかーし!
 僕は我に返って時計を見ると、で、電車の時間が〜!
「と、時緒様っ……んっ…もぅ…」
 一つの部活に絞ったことはないけれど、どの部活に参戦しても輝かしい功績を収めてきた時緒様の胸は、年若いのに厚く、男の身体をしている。
 その胸に両手を這わせ、どうにか押しやる。
「はっ…はぁ…時緒様…もう時間ですから…」
 やっと口を開放され、呼吸を整えながら、時緒様の顔をうかがうと、まだ拗ねたようにしてらっしゃる。
 そうさせてるのは僕なのだけれど、ううん、僕だから…なんだか少しだけ嬉しくなってしまう。
「行ってきますね・・・」
「・・・・・・・・・」
 後姿はまだ幼子のようで、笑ってしまいそうになるのをこらえて、僕は部屋を後にした。
 後ろめたさももちながら・・・。
 だって、今日は秘密の水曜日。
 
 定時に仕事を終わらせ、僕は今日決定した事項を赤ペンでしっかりと書類の端に書き写していた。
 すると、いつのようにコートを着込んだ竜馬が、僕の横にいつのまにか居て。
「お疲れ、霞。飲み行くぞ」
 本当・・・いつも、いつも僕を気遣ってくれて、本当イイヤツだよね。
 なんで恋人いないのか、すごく不思議だよ。
「・・・ごめん。俺、行く所があって・・・」
 いつもこの文句で断っていた。
 竜馬もこれ以上はいつもは突っ込んでこないんだ。
 けれど、今日の竜馬は違った。
「毎日、毎日どこにいってるんだ一体。女か?」
 そんなことはあるわけないと確信しながら、竜馬は霞に揶揄かいながら聞く。
 霞はその美しい目を細め、笑って否定する。
「俺なんかに女の人は興味ないよ。それより竜馬のほうでしょ。彼女・・・・・・作りなよ」
 僕には・・・・・・いるんだ、本当は。
 いつか、いつか・・・本当のことを告げたいけど・・・今はまだ言えない・・・恋人が。
 すっごい人なんだよ。すごい・・・人。
「彼女・・・・・・ねぇ」
 さすがに霞に言われるとショックもあるというもの。
 けれど・・・それ以上に気になるのは、霞の夜の姿。
 たまに、首筋に赤い痕があることは気づいてた。霞が、女よりも男に狙われるタイプというのは自分の実体験から言ってもわかっていた。
 けれど、頑なにそれを秘密にする霞。
 親友という肩書きがあっても話してもらえないのだろうか・・・。それは、つまり・・・ただの恋人じゃないんじゃないか。
 竜馬の心の中に、嫉妬にも似た感情が沸き起こる。
 それを表には出さないようにして、目の前の霞を見る。
 やはり・・・綺麗だ。
 男とか、女とかそんなの関係なく、恋に落ちる。
「竜馬?」
「ああ・・・彼女な。そうだな」
「まぁ、今は忙しいから仕方ないかもね。じゃあ、俺・・・行くね」
 仕事終了のこのホンノ少しの時間だけ、霞は社長秘書の看板を下ろし、敬語を止めてくれる。
 その瞬間が大好きな竜馬としては、この時間を延ばしたくてしかたなかった。
「送るか?」
 どきん。
 霞の胸の中に動揺が走る。
 竜馬が送ってくれるって言ってくれた。いつもなら、君島家まではいかないけど、近くに送ってもらう分には支障ないし、嬉しいんだけど・・・。
 今日は違う。
 水曜日だから。
「あ・・・と・・・あの・・・今日は・・・いいや」
「そうか」
「う、うん。じゃ、お疲れ様でした」
「お疲れ」
 霞は目の前にあった仕事カバンを掴むと、竜馬の前を逃げるようにエレベーターに乗った。
 竜馬は霞が、男に脅され陵辱されている姿が目に浮かんだ。
「まさか・・・・・・」
 綺麗な霞。優しい霞。頑なな霞。襲いたくなる男が居ても・・・否定は出来ない。
 もしかして、それを隠しているのではないか。
 追いたくなる気持ちにブレーキをかけたのは、霞からの軽蔑だった。
 もし、違っていたら・・・。
 霞は、俺の気持ちに気づき、親友なんて呼んでくれなくなるかもしれない。
 そうなっては、社長になった意味も無い。
 霞と一緒に働きたい。その一心で働いていたら、いつのまにか大きくなっていた会社だ。もし、霞が辞めてしまったらとたんに会社は潰れるだろう。
 そんなこと霞は知る由も無いけれど・・・。
「しゃ、社長」
 追いかけるべきか、追いかけざるべきか。険しい表情で悩んでいた竜馬に、怯えながらも一人の社員の女性が話し掛けてきた。
「なんだ」
 社員にも優しいと評判の竜馬は社内でも高物件だから、話し掛けてくるのは女性が多い。そんな社長に話し掛けるチャンスとばかりに、目の前にあった忘れ物を届け出ようとしたことを、彼女は少々後悔していた。
 どうも、この後誘い出すにはタイミングが悪かったようだ。
「あの・・・これ、藤岡さんの忘れ物じゃないかと思ったんですけど・・・」
「霞の?」
 確かに。彼女が持っているのは、霞の物だ。
 そして、家でやってくると言っていた重要書類だった。
 実際。霞は家ではなく、通勤途中か朝早く家を出て喫茶店かどこかでやるんだけど。なんてったって、時緒様は霞が家で仕事をすることを極度に嫌がるから。
「で、でも・・・もう帰ってしまいましたね。私、追いかけましょうか」
 タイミング悪いときに話し掛けた代償として、ご機嫌だけはとっておきたい。
 そう思った彼女は、頭の墨に買ったばかりで今日初めて履いてきたハイヒールを思いながらも、そう言ったのだが。
「・・・・・いや、俺が届けよう。それ貸してくれ」
 竜馬の頭の中に一つの作戦が思いついた。
 これを渡すことを口実に会いに行けばいいのだ。霞は電車かバスだから、今追いかけていっても、自分のBMWならすぐに霞を見つけられる。
 そして、見つかってしまったら、書類を渡しにきたのだ、と誤魔化してしまえばいい。
 なんていいタイミングで忘れものをしてくれたんだ。そして、なんていいタイミングで、渡しにきてくれたのだろう。
 感謝の気持ちでいっぱいだ。
「は、はい。どうぞ」
 社長と霞が親友だという話は、別に社内で隠されているわけじゃない。
 即座に納得し、彼女は書類の入ったファイルを社長に手渡した。
「ありがとう。宮古さん」
 名札を見て、咄嗟に名前を付けて礼を言うと、竜馬はエレベーターを使わず階段をダッシュで駆け下りた。
「きゃーーーっ」
 入社以来初めて名前を呼ばれた彼女は、倒れこむようにその感動を味わっていた。

 さて、今日も・・・がんばんなきゃ。
 霞は駅の百円ロッカーに隠している私服を取り出す。
 本当はロッカーって、一日しかつかえないものなんだけど、ここのロッカーは古い上に、ほとんど使われなくて、僕みたいに何か隠し事をする人の専用みたいになってる。
 僕意外が使ってるところをみたことないけど。
 でも、鍵は全部ついてないし・・・うん、結構使われてるみたいなんだよね。
「よいしょ・・・と」
 私服は普通のトレーナーとジーンズ。ブランド物でも、メーカー物でもなくて、本当に普通一般の人が着ているような物。
 こんな服、君島家で着てたら怒られちゃうんだけどね。
 もっと君島家に恥じない格好をしなさいって。
 だから、ここに隠してて・・・あ、ちゃんと洗濯はしてるよ!ちゃんと。
 暗くなっている隅で、誰も来ないことを確かめてから、急いでスーツからジーンズに着替え直す。
 ここのロッカー。本当にいつ、誰が使用しているのか、ここの前を人がとおるところは本当見たこと無いんだ。
 だから、最初はトイレで着替えしてたんだけど、ここでちゃちゃっとやっちゃったほうが早いし・・・ね。
 最後に一番奥に隠してある、いつものとは違う真っ赤なコートを着て・・・準備完了。
 これで、僕は・・・水曜日だけ・・・・・・別人になる。
 水曜の夜の町に繰り出す・・・安斎トキオに。
 って、竜馬の苗字と時緒様のお名前をくっつけたのは、僕にそれ以上想像力がなかったからなんだけど。
 だって、僕の世界は、会社と・・・時緒様だけだから。
 この仕事だって・・・・・・時緒様のため。
「あ、もう時間だ・・・行かなきゃっ」
 霞は就職祝いに藤緒様に買っていただいた時計が六時十五分前なのを確認すると、慌ててロッカーを閉めて、南口へと走った。

 「霞・・・・・・?」
 社長という何似つかわしくない行動的なBMWを走らせようと駐車場で車にエンジンを入れたとたん、目の端に捉えたのはさっき帰宅した藤岡霞その人。
 そして、自分が今しがた追いかけようとしている人でもある。
 霞を見間違えることはない。
 あんなに綺麗で可愛いい男は、一人しか居ない。長年連れ添ってきて、今更後姿で見分けられないような馬鹿じゃない。
 けれど、なぜかその名前を呼ぶのに疑問をもってしまうのは、さっき出社したばかりなのに、服装が違っていたから。
 グレーの、高級ではないにしろちゃんとしたつくりのスーツに、クリーム色のPコートを着ていたはずだ。
 それなのに、今視界の中にいる霞らしき人物は、真っ赤なコートにジーンズを着ている。
 見間違いだろうか。
 けれど、その人物は、横断歩道を渡るとこちらの方に歩いてくる仕草をした。
 竜馬は咄嗟の判断から、エンジンを即座に切り、車の陰からその人物を伺った。
 こっちは、駅から反対方面で、その上霞の家からは真逆。
 やはり、見間違いなんだろうか。
 自分の霞レーダーを疑い始めた頃、その人物の顔が他の車のライトで照らされて、ばっちり見えた。
「・・・・・・っ!」
 霞・・・と大きな声で叫びそうになり、竜馬は口を自らのごつい大きな手で塞いだ。
 赤いダッフルコートを着込んだその人物は、やはり霞だった。
 自分の目に狂いは無かったと安心するとともに、驚きはやはり消えない。
「なんで霞が・・・あっちに・・・?」
 霞の姿が完全に見えなくなってから、思わず出てしまった呟きは、嘆きにも似ていた。
 竜馬がそこまで驚くのには、わけがあった。
 なぜなら、駅南口を出て交差点を渡って歩いていくとそこは・・・・・・鳳地区。またの名を歓楽街。大人の町なのだ。
 昼間ですら、酔った人が倒れていたり、どうみても朝帰りな女の人たちがはびこっているのだが、夜になるとガラリとそこは魅惑の町となる。
 ネオンが町をつつみ、交差点を超えた向こうとはえらい違いだ。
 華やかに着飾った女たちが、会社帰りの男たちを誘い、たぶん、犯罪行為すれすれの営業を行っている。
 ほとんどの店がVIP御用達の高級店ばかりじゃない。
 中には未成年を働かせている店もあると噂のある、あまり印象のよくない所だ。警察も何度か多くの店を訴えてはいるのだが、そのたびにハズレで。今だ告発しきれていないのだ。
 竜馬だって何度か接待で訪れたことはあるが、お酒一杯の馬鹿高さには少々苦笑ものだ。
「霞は・・・・・・女を買うとは思えないし」
 霞にだって性欲があるだろうけど。
 高校時代だって、クラスに俺がエロ本を持ってきても、嫌悪していたわけじゃなかったから。ただ、積極的に見るタイプではなかったけれど。
 でも、霞に限ってそんなことはないだろう。
 だとしたら・・・。
「まさか、働いてるのか」
 鳳地区は、確かに女だけが男を誘う町ではにない。
 男の高校生くらいの子が、タチンボと言う金持ち奥様たちからの逆ナン待ちをしていたり、男色好みのためのバーやクラブなんかもいくつもある。
「霞・・・っ」
 しかし。
 霞が男の為に身を整え、男に酌をしている姿・・・そして、それ以上の好意をしている姿を思うと、胸が締め付けられるようだった。
 どうしてだ・・・!
 俺の与えてる給料が少なかったのだろうか。
 いや・・・・・・霞はよく、自分の働きを考えると多すぎると恐縮していたから、そんなんじゃないだろう。
 もちろん、霞は誰よりも熱心に仕事をし、与えられた以上の仕事をしてくれているから、それ相応なものを与えているし。
 それ以前に、休みの日も、会社帰りも遊んでいる形跡は無いし。酒もタバコも女もやらない霞が、何に金を使っていると言うんだ。
 どういうことだ・・・。
 竜馬は自分のあごに手をかけて、思考をめぐらす。
 しかし、敏腕若社長にもこの謎は解けない。
「・・・・・・着いていってみよう」
 やっと出た答えはこれだ。
 急いでエンジンを掛け直すと、鳳地区へと車を走らせた。
 案ずるより生むが易し。
 虎穴にはいらずんば虎子を得ず。
 そんなことわざを思い出しながら、夜の大人の町へと繰り出した。
続く。





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