-3- | 小説のぺぇじへ。

● 水曜日の秘密のお仕事 --- -2- ●

繁華街をちょっと抜けてた鳳地区の端のとあるバーの、こじんまりとしているが清掃の行き渡っている門を霞はくぐった。
「いらっしゃい、お客さん。ごめんねぇ、ここ七時から…。あら、トキオちゃん」
「ちょっと遅れちゃいましたっ。ごめんなさい桜さん」
「そんなこと無いわよ。いつもどおりよ。まったく真面目ちゃんねぇ。相変わらず」
「着替えてきますね」
 ここの美人ママ…というか、本当は男の人なんだけど。とりあえず、ママなこの人は源氏名を桜さんって言って、つまり…うん、ここは夜のお店。
 しかも、男の人が男の人を指名する店。
 今更ながら、こんな商売があることに僕はビックリしどうしなんだけど。
 僕は………君島家から出る決心をした時、時緒様ともっと近い存在になりたいと思ったとき、自分の力のなさに落胆したんだ。
 体力とか、精神力とかもだけど、それ以上に…人を賄っていくだけの力も無い、ただのガキだったんだ。
 だから、少しでもお金を貯めようとして、僕を買ってくれる人がいないかなって、本当出来心で鳳地区って呼ばれてる…ここらへん…あんまり評判の良くないこの辺りを二年くらい前に一人で歩いてたんだ。
 歩いてたらすぐ藤緒様くらいの方に声をかけられたんだけど、やっぱり恐くなっちゃって。
 でも、逃げるわけにもいかなくなってどうしようってすごく困ってるところを、助けてくださったのが桜さん。
 あの時は、普通のお兄さんだったから、こんな裏の顔があるなんて知らなかったんだけど。
 で、僕みたいに鈍くさいのがどうしてこんなところを一人で歩いてるのかって聞かれて、大まかな説明を…って言うか、ほとんど嘘なんですけど。ごめんなさい桜さん。だって、でも……時緒様のことは言えないから…。
 とにかくお金を貯めたいことを必死に訴えたら、すっごく共感してくれたみたいで、自分のお店で働かないかって言ってくださって。
 僕、こういう世界で働いたこと無かったから一度はお断りしたんだけど(それに、時緒様に黙ってアルバイトなんて出来ないと思ってたから…)週に一回でもいいからってすっごく嬉しいことをおっしゃってくれたので。
 そんなこんなで…僕は水曜日夜七時から深夜二時まで、ここでちょっとだけアルバイトさせてもらってるんだ。
 安斎トキオって言う…嘘の名前で。
 ああ……本当…ゴメンナサイ桜さん。
 そして………時緒様。
「トキオちゃんっ!ごめん、ちょっと店番してて。すぐ戻るから」
「は、はい」
 黒いズボンに真っ白いワイシャツ。お店のコスチュームの仕上げである黒い首輪(何故?)を首につけてお店の方に出てくると、桜さんが電話を慌てて切りながら、飛び出していった。
 もしかして、何かトラブルかな?
 桜さん、ここの他にいくつかお店もってるらしいから。
 ここのお店は、いわゆるゲイの方専門のお店だけど、店の雰囲気は普通のお食事を楽しむお店のようで、そういう夜の雰囲気はほとんど無い。
 僕のほかにも従業員の人はいっぱいいるんだけど、みんなすっごい綺麗なんです。だから、本当…僕なんかが働いてていいのかなって恐縮に思うときもあるんですが…。
 桜さんは、中性的な魅力って感じで、女の方のお客様もたまにいらしてたりもするんです。
 鳳地区一、良いお店だと僕は胸張って言いたいくらい…って、ここで働いてることは時緒様にも竜馬にも秘密だから、誰にも言えてないんだけど。
「桜ママいる〜?」
「あ、いらっしゃいませ!」
 と言っても、店番をやらされるときはすごくドキドキするんだ。
 僕はいっつも桜さんのご推薦のあった特定のお客様としか接しないから、他のお客様とは常連さんでもほとんどお話をしたことが無いんだ。
 もしかして…桜さん僕に気を使ってるのかな。こういう店だからって覚悟はしてたのに、お客様は僕とおしゃべりと晩酌を楽しんで帰ってくださるかたばかりだから。
 って、そんなわけないよね。
 ここにくるお客様みんなが良い人なだけなんだよ。
 うん、さすが桜さん。
「申し訳ありません。桜さんは今ちょっと所要で出てるんです。……飲んでお待ちになりますか?」
 入ってきたのは、まだ七時だと言うのに既に酔ってらっしゃってる、中年後半くらいの重役みたいな方。
 そうそう、ここ各界でも有名らしくて、結構政治家の方たちがお見えになるんです。すごいでしょ?すごいでしょう〜?
 あ、そうか。だから、お客様も品が良い方が多いんですね。
「ああ」
 でも、酔ってる方は別。
 お酒が飲めない僕は、ザルな時緒様によく笑われるんだけど、酔ってる方も結構苦手なんです。
 でも、お客様相手に嫌な顔は出来ないから、お客様の座られたソファにメニューを持っていくと、奪い取られるようにメニューが引っ張られた。
 ビクッとして手を引っ込めば、男がニヤリと笑った。
 ふくよかとしたお腹が波打つように揺れた。
「新人……じゃあないよねぇ…トキオくん」
「……えと…」
 誰だっけこの人…常連さんまではいかなくても、最近よく来てる人かな?
 他の人がいれば、名前をこっそり教えてもらえるんだけど、今はあいにくみんな控え室で着替え中みたい。
「古畑だよ。衆議院議員の古畑歳三」
「申し訳ありません古畑様っ。あの、お飲み物のほう…」
「それより…だ」
「あ、…あの…ぇっ…」
 古畑さんの腕がいきなり僕の腰に周り、引き寄せられる。
 もちろんいきなりだったから、僕の身体はバランスを崩して古畑さんにもたれるように転ぶ。
「す、すみませんっ」
 うわぁ!お客様を潰すように転んじゃうなんて!
 謝ってすぐ立ち上がろうとしたのに、僕はそこで初めておかしいことに気づいたんだ。…体があがらない。
 というか、ぎゅって…ぎゅって強く……抱きしめられてる!?
「…っ…あの…っ」
 やっぱりおかしいってば!やだ…どうしたら…こういう時ってどうすれば…。
「桜ママもずるいよねぇ」
「??」
 ソファに引きずり込まれるように横にされ、古畑さんにのしかかられる。パニックになる僕に古畑さんは酔った口調でわけのわからないことを呟く。
「君に……お客を取らせないんだもん。みんな君に触りたいのにねぇ。みんな君にこういう事がしたいのに……ママだけのモノにしちゃって…」
「ぁ…あの、古畑さん…?」
 僕がお客さんをとってない?
 ちゃんとお客さんのお相手してるよ?僕…。
「私はずっと君を見てたんだよ…」
 耳朶を舐められながら言われて、体中にゾワッとする悪寒が走る。
 気持ち悪いっ!
 コウイウお店で働いててなんだけど、身体に触られた事もあんまりなかったから、急に恐くなる。
 男なのに…男を振り払えないなんて!
「やっ……」
 決死の抵抗は、そう小さく囁くだけだった。
 霞の甘い声に男はますます発情したのか、自身の前のジッパーをゆっくり下げながら自らでソコを煽っていく。
 その下には霞。
 霞のももに、その男の高ぶりがあたり、霞はぎゅっと目を閉じる。
 身体が小刻みに震え、まるで小動物のように男の成すがままにされる霞は、必死に吐き気をこらえていた。
 痴漢のときもそうだったのが、時緒様意外免疫のない霞は、男に触られるという行為に従順出来るわけではなかった。
 時緒様だから…時緒様だから、この身も全てあげられたのだ。
「っ……ぁっ」
 男の手が自らではなく、霞自身にまで触れてきた。
「可愛い反応をするねぇ…初めてじゃあ、ないだろう?桜ママの囲い犬らしいから…ねぇ」
 何?桜さんの何って…?
 そんなのどうだっていい!もう…やだっ。
「ふっ……ぅあっ」
 嫌だとは思っても、時緒様に躾られた身体は男の乱暴な愛撫にすらひくひくと反応していく。
 そんなご馳走のようなデザートを前にして、欲望の戦くままとなった古畑が我慢をするわけもなく。霞の零れ落ちそうでこらえている涙を舐め取ると、唇を奪った。
「んんーっ…んっ…はっ…嫌っ…古畑様っ」
「はぁ…いいじゃないか……どうせ桜さんと毎晩やってるんだろ…」
 だから、どうして桜さんの名前がそこにでるのですかーっ。
 嫌…時緒様っ…時緒様っ。
「ああっ」
 男の唇がようやく霞を開放したかと思えば、今度は霞にはその凶器にしか思えないその口を霞のそそるうなじに這わせていく。
 ご自分の好みで首筋を吸い上げ、熱いしるしをつけていく。
「あっ……お願…いします……痕は…っ…つけないで」
 鬱血の痕のようなその赤い求愛の印は、霞の願いとは裏腹に濃く色づいていく。
 もし……この痕を時緒様に見られてしまったら?
 たぶん………僕、もう…外に出られないっ!
 そんなの…困るんです。
「お願…いします…ひっく……も…」
 男は霞の肌を今一度見直して、ゴクリと生唾を飲む。
 なんて綺麗なんだ。
 男の姿でありながら、その色気は女をも凌ぐほどで。
 煽ったおかげで上気した肌はうっすらとピンク色になっていて、かるく花の香りのような霞自身の香りが漂う。
 男を誘う香り…。
 古畑は霞のずぼんと下着をここぞとばかりに隙を見て全て引き抜き、しゃぶりつくように顔を埋める。
「嫌あっ!あっ…はぁっ…もっ…ああっ」
 既に手で扱かれていたソコは、可愛がるようにベトベトに舐められて、さらに昇り詰めていく。
 こんなの嫌なのに…嫌なのにっ。
 時緒様っ…僕を許してくださいっ。知らない男の方に…簡単に身体を触らせてしまった僕をどうかお許しくださいっ。
 どうか、嫌わないで下さいっ。
 頭の中で思うのは、既に適わぬ回避ではなく、それ以上に恐ろしいこと…。
 時雄様に嫌われること。
「ひゃあっ…あ…ソコは嫌ぁっ」
「どうしてだい…ほら、ヒクヒクしてる……美味しいねぇ…ここも」
 男の顔がだんだん下降して行ったかと思ったら、今度は霞の秘所に舌を突っ込んできた。
 すでに欲望で溢れ出してきている唾液をその中に注ぎこんでいく。
 蕩けるように甘い霞の入り口を丹誠に舐めつけ、霞の欲望を誘う。
「ひぃ…っ…ああっ……」
 言葉にならない感情が霞を襲う。
 感じたくない、気持ち悪いと言う気持ちと葛藤に、無理やりな快感も押し寄せてくる。
 どうなってるの…っ?僕…もう…どうなっちゃうの…。
「くちゅくちゅって音聞こえる…?君が私を欲しがってる音だよ」
「違っ……っんっ…はっ」
 違いますっ!嫌なんだ…僕は嫌なんだっ。
 焦らされる感覚と、ココロについていかない頭の欲望に身体が悲鳴をあげる。
「そろそろいいかな…」
「…はぁっ…はぁ…」
 古畑の顔がソコから離れたのを感じ、今だ敏感すぎるくらいにだるい身体を起き上がらせ男を見ると、男は店内だと言うことも忘れているのか、下着を全て脱ぎすて霞の身体を抱え直した。
「な、何を……っ?」
 これで終わりじゃないの…?も……終わって…。
「子供じゃないんだからわかるだろう?君を最高に気持ちよくすることをするだけ…」
「嫌っ!!」
 腕を押さえつけられて、ソファに寝かされ、腰のすぐ上には、今すぐにでも挿入しようとしている戦闘体制ばっちりの古畑の肉棒が備えられている。恐怖で声にならない声で叫んだ瞬間、お店のドアが壊れんばかりの音を出して開いた。
 だが、霞にはすぐにそちらを向く気力も、体力も無く、自分にまたがっている男が恐怖に打ちひしがれた顔をその入ってきた誰かに殴られ、自分の上から強制的にどかされるまで、何が起こったのかまったくわからなかった。
「だ、誰なんだ君はっ」
 古畑が入ってきた男にそう叫んだ。
 桜さんじゃ……ないの?
 準常連の古畑さんが、誰って聞くくらいだから、お店の常連さんでもない。従業員の人でもない…としたら、誰?
 あまりの恐さでずっと閉じたままだった目を開くと、そこにいた男は、霞を見て、呆然としている。
 そして、それ以上に霞はショックで自分が今どんな格好なのかも忘れて、その男に見入った。
「りょ、竜馬っ………っ」
「霞……これは、これはどういうことだ…」
 自分のあまりに乱れた格好を親友に見られ、霞の顔中から生気が失せる。
 真っ青になってうろたえる霞に着ていた高級なスーツのジャケットをかぶせると、竜馬は再び古畑に向き直った。
「お前はさっさと消えろ」
「ひぃっ」
「こ、古畑さんっ」
 駄目…古畑さんは……お店のお客様なのに…。
 霞はお店への損壊を気にし、今日の代金を支払わず逃げていく古畑を引きとめたのだが、それが竜馬にはまるで男に媚びているかのように思えて、か弱く声をだした霞の腕を握り締めた。
「お前はっ……」
 一体何をしているんだ…こんな所で。
 そう問い詰めたくて、霞を見つめたのに、霞は今だ怯えたままで、その肢体には生々しい情欲の痕がしっかりと残されている。
 誰もが我武者羅に抱いてみたいと欲すその身体が今……目の前にある。
 竜馬は自分の喉がゴクリと鳴るのを感じた。
 何も話さないのに、拘束を解かない竜馬を、霞は自分を軽蔑したのだと思った。
 男に身体を開く自分に。
 男に触られて、快感を感じてしまった自分を、汚いって思ったんだ…竜馬は。
 仕方ない…けど………やっぱりキツイな…。
 誤解を解くつもりは無い。けど、このままお別れなんて…嫌だ。
 何を言っていいかもわからないうちに、霞は口を開く。
「……竜馬……俺っ」
「ただいまぁ〜………あら、お客様?」
 パチンコの景品が入っているかのような、茶色の紙袋にいっぱいのポッキーを持ってここのオーナー。桜が帰ってきた。
「桜………さんっ」
「トキオちゃん!?」
 この手の店が建ち並ぶ鳳地区で、不況にも負けず経営を続けているこの店は、桜一人で切り盛りしている。つまり、桜は人一倍経営能力には長けていて、つまり頭がいい。
 ソファにうな垂れるようにしている霞の脱がされた衣服の状況を見て、何があったのか瞬時に判断した。
 そして、そうなると敵は目の前の………身体の大きな男になってしまう。
 桜は竜馬の前に立つと、男の目で睨んだ。
「……あの、あの…桜さんっ」
「………君?この子に手ぇ出したの」
 桜さん……今は女装してらっしゃるのに、言葉が男口調…なんですけど…。
「……俺じゃない」
「嘘をつくなっ」
「ち、違うんですっ!桜さん……本当に竜馬じゃ…」
 桜さんの着ていた真っ白のスカートスーツのフワリとしたスカートの端を掴み、霞は今にも殴りかからんばかりの勢いの桜の動きを止めた。
 こんな桜さん、助けていただいた日以来…。
「竜馬?」
 霞がこの店で人の名前を呼捨てで呼ぶことは無い。どんなに新人の子が入っても、どんなに親しいスタッフでも、そして、いつも氏名をしてくれるお客さんでも、みんなにそれぞれの敬称をつけて呼んでいた。
 だから、聞きなれないこの名前に桜はすぐ反応した。
「知り合い?」
「………」
 答えられず黙り込む霞に変わって、竜馬が胸ポケットから厚紙を取り出した。
「安斎LTDの社長の安斎竜馬です。霞………彼の上司で、彼は私の秘書なんです」
 ああ!……普通の仕事をしている事は…桜さんには秘密なのに…。
 全部ばれちゃった…。
 どうしよう…僕、僕…。
「安斎…?トキオ君は君の親戚か何か?」
「トキオ?」
 そう、僕はここのお店に入るとき偽名を使っていたから…。
 安斎トキオって言う、偽名を。
 僕は本当に居た堪れなくなって、二人の間に割って入った。
「す、すみませんっ…あの…僕…」
「霞」
 竜馬が、あまりの僕の慌てぶりに優しく声を掛けてくれた。
 うん……大丈夫。僕、僕が悪いんだもん……全部。
「…桜さん、あの……僕、すみません本名……違うんです。安斎…っていうのは、僕の親友から…安斎竜馬からとってつけて…トキオは…トキオは…」
 そこまでしゃべって胸が詰まった。
 この名前は、僕の愛しい人の名前なんです、なんて絶対に言えない。
 でも、そうなんですよ。これは、僕の大好きな人の名前を拝借してしまったんです。誰も…誰も気づかないけど。
「トキオは…適当に…つけて」
 薄暗闇のお店の中に、普段ならお客さんが既に来てる時間なのに、今日は僕らしかいない。
「本名は……藤岡霞って言うんです」
 本名を偽ることは、この世界じゃそんなに珍しいことはない。店の風紀に関わることだから、犯罪者とかの疑いがある人はこっそり裏で調べてもらったりもするけれど、霞の場合、桜は深く追求しなかった。
 いや、出来なかった。
 怯えたように誘う男を待つ少年のような男。
 決してこんな世界が似合っていないのに、その身体からは色めくような魅力が溢れていた。
 人に惹かれるとはこういうことか…と思った。
 自分の性癖は幼いときから普通の人とは違っていた。
そんな、女の格好をすることを気に入っている自分ですら、その男の内から溢れ出す淫猥な香りに抗えなかった。
 だから、何の保証もなく仕事を斡旋した。
 しかも、こんな夜の町でお客に愛想を振り撒くだけという………赤ちゃんですら出来るような甘い仕事を。
 そうまでして傍に置いておきたくて、そして、誰にも触れられたくはなかった。もちろん………自分も触れることは出来なかったけれど。
「………そう」
 僕は桜さんまで裏切ってしまったんだ。
 霞の小さな胸が張り裂けんばかりに痛んだ。
 こんなに、こんなに良くして下さったのに…僕は、桜さんに何一つ本当の事を話していない。
 申し訳ない…申し訳ない。
 そして、竜馬にも二度と顔を見せられない。
 こんな汚い僕なんて…もう二度と。
「霞。送ってく…帰るぞ」
 竜馬がいきなり僕の腕を取って外に連れ出そうとする。
 桜さんはキッとその竜馬を睨んで、僕の反対側の腕を掴んだ。
「何をするんだ…トキオ…霞はここのれっきとした従業員なんだが」
「こんな事があって仕事も何もないだろう。今後のことは霞にゆっくり考えさせればいい。霞、ほら行くぞ」
 ごめんなさい、桜さん。
 本当にごめんなさい。
 霞の潤んだ琥珀色の瞳でそう訴えれば、桜はそれ以上何も言えなくなり、やや強引に去っていく霞を黙って見送った。
 ごめんなさい………。
 霞は必死にその思いを心で思っていた。

 乱れた格好の霞を人目につかないうちに助手席に乗せると、竜馬は待っていたように口を開いた。
「どういうことなんだ、霞。俺のやっている給料が少なかったのか?どうなんだ、言ってくれ、霞っ」
 憤る怒りを隠すことが出来ず、クラクションが鳴るほど大きな衝撃でハンドルに突っ伏す。
 霞はその大きな音に驚き、萎縮し下を俯いた。
「……………違う。違うっ。竜馬は…竜馬はいつも僕にいっぱい…」
「じゃあ、どうしてあんな店で働いてたりしてたんだっ。毎晩俺の誘いを断って行っていたのは、あの店だったのかっ」
「違う、そうじゃない!あそこは水曜日だけ……」
 あそこは水曜日の秘密の仕事場。
 水曜日だけ、水曜日の夜だけ、霞が目的のために働く場所だった。
 けれど、良く考えれば、じゃあその他の日は何をしていたんだと言う事になる。何をしていた…?
 言える分けない。男の時緒様と愛を睦んでいたなんて。
 これ以上、親友の竜馬には……言えない。
「………ごめん…ごめんなさい…っ」
 そう言えば、涙が零れた。
 ずっと抑えていた涙が零れた。
 だって、きっともう………竜馬とはこのままじゃいられない。
 会社にもいけない。竜馬とは親友でなくなる…。一生の友達だと思っていたけれど。
 もう駄目………。
 これ以上、僕は竜馬を苦しめてはいけないんだ。
「も、ここでいい…よ。僕歩いて…」
 シートベルトを外して、路上に飛び出そうとした霞の身体に、香水の香りの利いた体がかぶさってきて、小さなその肢体を拘束する。
「竜馬っ………!?」
「霞………」
 あんな現場を見て、幻滅するどころか………この思いは抑える鎖を失った。
 竜馬はずっと、ずっと霞に対して思っていた恋愛感情をさらけ出し、霞を抱きしめた。
「竜馬……何……放して…っ」
「嫌だ、霞……」
 竜馬の甘ったるい声を耳元で囁かれて、霞は涙のまだ零れている顔を困らせた。
 霞は鈍感じゃない。
 ただ、今までこの傍にいてくれた男は、親友だと思っていたから。まさか、自分に対してそんな他の感情を持っているんだとは知らなかったのだ。
 その気持ちは、とっても暖かい……感情で。
 高校時代からずっと親友だから、もう八年以上親友でいてくれた竜馬。
 本当はもしかしたらずっと僕を、大切に思っていてくれたのかもしれない。
 そう思うと、さっきまでとは違う涙が流れた。
「……誰でもいいならっ…あんな仕事をして他の男にその身体を触らせるくらいなら……俺を選べよ…霞っ」
 竜馬の手が頬を掴み、身体のラインをなぞっていく。
 その手がもっているのは、明らかに欲情した愛撫の感触。
 毎日、毎日時緒様に躾られた霞は、そんな事は百も承知だった。
 我武者羅に、どうしようもない気持ちをぶつけてくる竜馬は、まるで出会った頃の彼のようで。霞は胸が痛んできた。
 もし、自分が普通の生活をしていたのなら、何も悩まずこの男のこの手を取っただろう。
 けれど、自分は違うのだ。
 自分は時緒様を愛している人形。男に買われた哀れな人形。そして、それは変えられない事実。
 霞は一度竜馬の身体をぎゅっと抱き、そして竜馬と自分の間に手を滑らし押し返した。
「霞……」
「竜馬、ありがとう。でも、僕は……もう、ある人のモノだから」
 今はそれ以上聞かないで。
 きっと、きっといつか、竜馬には話すから。
 大きな霞の瞳がそう訴えている。
 竜馬は絶えがたい気持ちをどうにか押さえ込み、霞に触れていた手を下ろした。
「そう……か」
 竜馬は霞の上から身体を退かせると、運転席に戻りシートベルトをつけアクセルを踏んだ。
「せめて、家まで送らせてくれ」
 笑顔でそういってくれた竜馬の気持ちが痛かった。
 僕は精一杯の笑顔で頷いた。
 僕は今日一日で、何人の人の気持ちを傷つけたんだろう。
 なんて、最悪。
 なんて、最低。
 自己嫌悪が霞を襲った。

 霞の案内を聞きながら車を走らせ、竜馬は一軒の物凄く大きなお屋敷の前で車をとめた。
 霞は途中何度も近くで降ろしてくれればそれで良いと言っていたが、半ば強引に竜馬がここまで連れてきたのだ。
 高校時代から家の話はほとんどしなかった霞だから、どんな家なのだろうといつも想像はしていたのだが、どの想像をもこれとは違っていた。
 霞は少し躊躇しながらシートベルトを外すと一人外に出た。
「………竜馬、ここがね、僕の………お世話になってる家」
「世話…?」
 竜馬は聞きかえしたけれど、自分で地雷を踏んでしまったと思ったらしく、すぐに口を閉ざした。
 優しい竜馬。
「うん。僕の家じゃないんだ。ずっと………だから、高校時代も連れてこられなくてごめんね」
 改めて屋敷を見ながら、霞はため息をついた。
 ここは、僕が住んでいるけれど、僕のお家じゃない。
 そして、時緒様のお家でもない。
 ここは、藤緒様のお家。
「………明日からも……ちゃんと会社来いよ」
「え………」
 慌てて車の中を覗き込めば、竜馬がフッと笑った。
「当たり前だろ。お前にしか出来ない仕事がまだ残ってるんだ」
「竜馬……」
 嬉しかった。仕事が続けられることじゃない、竜馬は僕をまだ…友達だと思ってくれるんだって事が。
 僕は竜馬に負けないくらい笑顔で返事をした。
「うん」
「じゃあ、早く寝ろよ。今日は」
「うん、おやすみ」
 竜馬は霞が門をくぐるのを見送って、車のエンジンを入れなおした。
「君島……ねぇ」
 愛用のタバコに火を点けながら、竜馬は目に止まった標識を読み上げる。
 君島と言う名で、これほどの金持ちと言えばたった一つ思いつくのは、君島藤緒率いるあの一家だ。
 会社が小さい頃は相手にもされていなかったが、大きくなってからは『君島』という名前ではないしにしろ、その系列会社からしょっちゅう安斎LTDにだって依頼は来ていたから、もちろん知っている。
 その君島家と……霞は親戚だったのだろうか。
 けれど、深くその内容を話したがらない霞の様子から見て、まず……あんまり良い待遇で生活しているようには思えない。
「霞……っ」
 嫌な予感がする。
 女性的というか、中性的で普通の大人の男の割に、男からも魅力的に見えてしまう霞が、この家で一体どういう暮らしをしているというのだろう。
 一瞬にして竜馬の頭の中には、よからぬ考えが膨らんでいく。
 その妄想はとめどなく、君島家の前から車を出発させることができない。
 どうする…?
 いけないことだ。霞が語らない以上この先を探ってはいけないのだ。そう思えば思うほど、竜馬の頭に浮かぶ考えが明確になっていく。
 竜馬は車を少し走らせ、邪魔にならないところに止めると、車を降りた。
 元々人が良い竜馬は痛む良心を少し感ずつつも、君島家の裏に回り、学生時代から鍛えつづけている身体を使って、高い塀を乗り越えた。
 幸い、警備に関してそこまで手をいれていない君島家の誰にも見つからず、ごく簡単に進入できた。
 少し…ほんの少し霞の様子を見るだけだ。
 竜馬は自分にそう言いわけし、踏み込んでいった。
続く。
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