●● 水曜日の秘密のお仕事 --- -3- ●●
門をくぐってから裏に回り、いつもどおり裏口から入る。
「ただいま帰りました」
誰もいない。
今日も藤緒様はここにはいらっしゃらないから、たぶん他のメイドさんたちも自室についてしまったんだろう。
水曜日だけは遅くなることを伝えているから、時緒様との夜の情事もない。だから、霞は誰も起こさないように静かに足を滑らし、自分の粗末な部屋へとさっさと入ってしまおうとして、ドアの鍵を差し込む。
「…?」
鍵が開いてる…?
今日の朝、僕鍵をかけるの忘れたっけ。
霞は不思議に思いながらもドアを開け、その中が明るいことに驚く。
鍵を忘れることはあっても、電気やストーブを消さずにでかけることはない。霞はまさか誰か入ったのかと慌てて踏み込むと、後ろから口をふさがれて、ドアを閉められる。
「んんっ!」
見慣れた手が口をしめているのがわかる。この指の長さ、細さ、体温の少し低いところ、そして感触全てが霞をいつも抱きしめているものだ。
「と、時緒様っ」
少し空いた隙間から精一杯叫べば、時緒が笑わない顔で立っている。
「霞……しよ…」
「んっ…ぁっ……」
回りこんできた時緒様にいきなり強引に口付けられて、時緒より背の低い霞はよろけそうになりながらもそのキスを受け入れる。
時緒様がどこでもこういうことをしようとしてくる事は珍しいことなんかじゃない。ただ、今日は…今日だけはしたくなかったんだ。
水曜日はいつもそういう気分にはなれないんだけど。
だって、水曜日は……僕が時緒様を裏切っている日だから、そんなのを抱えたまま時緒様に抱かれるなんて、時緒様に申し訳なくて、どうしても時緒様に素直になれないから。
ただ、今日は………ただの水曜日じゃなかった。
他の人に触られたんだ。この粗末な身体を。
時緒様のためだけに存在する僕の身体を、他の男に触らせちゃったんだ。
そんな身体を時雄様に晒される訳が無い!
それに………竜馬との事も自分の中でそっとしておきおたいから。
だから、今日は…今日だけはお願い。時緒様、今日だけは僕を好きにならないで。
こんな僕を…今日だけはそっとしておいて。
濃いキスを何度もして、僕をその気にさせていく時緒様の舌を啄ばむように浅くして、さりげなく拒んでいると、時緒様はそれに気づいたのか、霞用の小さなシングルベッドに霞を押し倒した。
「あぅっ・・・・・・っ時緒様」
スプリングのほとんどないベッドに頭をうちつけて、霞はすぐに瞳をあけられない。
時緒は霞の首筋に口を落とし、かじりつく。
「・・・・・・はっん・・・ああっ」
痛みと快感で嬌声をあげれば、いつもの時緒なら子供のように微笑んだのだが、今日の時緒はちょっと違った。
霞の白く透き通る首筋・・・うなじには、既に赤い痕が点々と残っていた。
乱暴に動き回る手が加える愛撫と、いきなりの口付け、そして首筋への快感で、まだ息のあがっている霞は、時緒が何を考えているかなんて、まったくわからない。
ただ、すぐ次に次にと移ってくる時緒がじっと自分の首筋を見ていることに気づき、整わない呼吸のまま愛しい人の名前を呼ぶ。
「時緒・・・・・・様ぁ?」
舌足らずの甘い霞の声に呼ばれても、時緒はピクリとも動くことができなかった。
それほど、それほど時緒の中にいままでなかった感情が蠢いていたのだ。
嫉妬、憎悪、愛憎・・・・・・。
時緒は霞に覆い被さっていた身体を離し、霞のネクタイを解くとそれで霞の腕を縛った。
「と、時緒様っ・・・何を・・・何を?!」
霞の両手を頭上で一くくりにして、そのまま霞を引っ張り起こさせると、いつもハンガーをかけていた壁のフックにしっかりと巻きつける。
霞は壁に立ったまま固定され、未経験の恐怖に全身が震えた。
「と・・・・・・・・時緒・・・様・・・っ」
地面につくかつかないかの所で浮いている足を、ガグガクと震わせ、霞はどうにか許しを請う。
何が悪かったのかわからない。
ただ、確実に時緒様はその何かに怒ってらっしゃるんだ。
時雄様を怒らせたことは、今までだって少なからずあった。けれど、わけがわからず、ここまで無言で責められる事は初めてで、霞はなすすべが無い。
「申し訳ありませんでした・・・・・・っ」
ただ謝れば、時緒がぴしゃりと言い返す。
「何が」
「・・・・・・・・・」
「何が悪かったの?言ってごらん」
あごを人差し指ですくわれ、クッと上を向かされる。
ねっとりとした舌で、歯列をなぞられ、唾液が唇の端から零れ落ちる。
「・・・・・・帰りが・・・遅くなってしまって・・・」
思いつく限りの、時雄様を怒らせる原因を言ったのに、時雄様をますます怒らせてしまったようで、ピクリと整った眉が揺れた。
「・・・・・・・・・じゃあ、霞は会社の会議で何をしてたのかな」
「ぇ?」
水曜日の帰りが遅いことは、会議が入ってるからということにしている。
会議で何をしてた・・・って?どういうことですか、時緒様。
「ねぇ、霞の会社は会議に出ると、キスマークをつけられるの?」
意地の悪い言葉で時緒様は皮肉そうに言う。
キスマーク!!
霞は咄嗟に古畑さんにやられた事を思い出し、顔をハッとさせる。その反応に霞が思い当たる節があると見た時緒は、霞の艶かしい首をもう一度弄くる。
「ひゃあっ・・・・・・ごめんなさいっ・・・・・時緒・・・様ああっ」
ジャケットとワイシャツを剥ぎながら、耳朶から鎖骨にかけての痕の上を丹念に吸い上げていく。
「許さないよ・・・・・・霞」
「くっああっ・・・・・そこっ・・・やっ・・・」
スーツの上から、ずぼんの股の部分を押し上げられる。
疼きが始まっているそこは、その刺激だけで絶頂を迎えそうになるが、もちろん時緒は霞が気持ちよくなることを許さない。
「罰を与えなきゃ・・・だろ?」
「ふぁあっん・・・ひゃっ・・・あっ・・・」
霞自信をキツク握られ、霞は嬌声とも喘ぎともとれないような声をあげる。
なんて事をしてしまったんだろう!!
時緒様意外に触れられた証拠を見せつけたまま、こんな行為に陥ってしまうんなんて。
いや、見せないでしないなんて不可能。つけられてしまった時点で、触らせてしまった時点で僕の失態なんだ。
霞は目じりに光るものを浮かべながら、心の中と声で必死に謝りつづけた。
「ご・・・ごめんなさ・・・」
「許さない、っていっただろ」
何度許しを請いても、時緒のただ自身が快感を帯びたいだけに動かす手のは止まなかった。
これは、僕にかせられた罰なんだ。
僕はこれを絶えなきゃいけないんだ・・・。
「っ・・・・・・痛・・・っ」
霞の恥部を、スーツの上から無理やり押し上げる。
隠されたその部分が無理やり広げられる感覚に教われ、ピリッとした快感にも似た痛みが霞を遅い、思わずそう言ってしまった。
しかし、時緒は皮肉そうに笑うと、すぐにベルトを取り外し、下着ごとズボンを下げた。
「痛い?霞はいつもこういうこと悦んでやってたじゃないか。それに・・・俺以外の男ともやってるみたいだし・・・」
信じられないっ!
霞は生まれて初めて、侮辱と言うものを味わった気がした。
例え親に売られた身であっても、藤緒様に買われた身体であっても、その心はいつも綺麗でいた。
でも、違う。今の時緒様の言葉で、霞は初めてこんなにまで傷ついたのだ。
それは、好きな人の言葉であったから。
両親だって好きだっただろうけど、でも自分を売るような人たちだ。同情心に助けられている部分もあるだろう。
でも、時雄様は違う。
僕を好いてくれる、たった一人の人。
一生を共にしたいと思った人。
そんな人に、誤解された。
「違いますっ……あっ…痛っ…お願いします…聞いてく…だ…さっ…あっ」
違うんです。違うんです。
僕はあなた意外に、この身を捧げなどいたしませんっ。
お願いします…わかってください!
「何も聞くことはないよ。霞」
「と、時雄様っ……っ」
鋭い爪先がスーツを切り裂く。布が悲鳴をあげるような音で引き裂かれた。
恐怖感と、孤独感が募っていく。
愛しい人がこんな近くにいてくれるのに…。
瞬きすら忘れ、時雄様を見つづける霞の大きな黒い瞳の端から、冷たい涙が零れ落ちる。
「霞、今まで水曜日はいつも俺以外に抱かれてたの?」
酷いことをされているのに、今まで慣らされた反動でしっかりと変化してきている霞の下肢を眼で犯しながら、冷酷に時緒が言い放つ。
「……ふっ……時雄様、時雄様…お願いします」
こんな状態のまま本当の事を言っても、信じてもらえない事など霞は十分承知だった。だから、とにかく二人とも冷静にならなくては、そのための時間と距離を請求したのだが、時緒には、自分の問いかけに対する最悪の返答ととったらしい。
先ほどスーツをやぶった爪で、下着も剥ぎ取るとその中身を爪で少し強く引っかいた。
「ぁっ…ふっ…んん」
喘ぎ乱れていく霞の耳朶を血が出るほど噛むと、自分の所有印をつけていく。
赤く染まった耳を執拗に舐めりながら、掠れた小声で囁く。
「他の男の味は、そんなに俺よりよかった?」
「!!」
指をいきなり置くまで突っ込まれる。
慣らされていない指と肉壁は、反発しかなりの痛みを霞に負わせた。
しかし……。
時緒の言葉のほうが、今の霞には痛かった。
声もあげることができず、見開いた目と涙と乾いた声が霞の混乱を痛々しいほどに表していた。
「……と…きお……さまっ…」
捨てられる。
僕は捨てられてしまう。
時雄様以外に、この身体を開いた不貞な恋人だから。
「お願い……しま…ああっ…っ痛い…ああっ」
時緒様は霞の言葉など聞こえないかのように、霞の奥まった秘孔を弄くる。
三本に増えた滑りのない指を引き抜かれは、押し込まれてを繰り返し、皮肉にも霞の身体は熱を帯びていく。
声に艶かしい響きが加わり、それがますます時緒の神経を逆撫でした。
「霞は何をお願いしているの?浮気をしたこと?俺に不貞を働いたこと?ねぇ、霞、ちゃんと言ってごらん。霞」
「ふぅっ……時緒…様っ僕は…時緒様以外に…抱かれて…ませ…ふぁあんっ…!!」
「嘘をつくと殺すよ」
「ひぃっ…」
腕を繋がれたまま、身体をくるりと反転させられ、霞の視界から時雄様が完全に消える。不安が霞の小心を襲い、その小さな胸は今にも壊れそうなほど痛んだ。
両足を広げられた状態で時緒に抱えられ、体が痛い。
「時雄様っ嫌です…お願いします…こんな…」
あまりの恐怖にめったに言わない行為に対しての批判が漏れる。
時雄様には捨てられる、それはもうわかったことだ。
なのに、なのに最後がこんな抱き捨てでは、あんまりだ。
確かに……自分は二千万で変われた愛玩具ではあるのだけれど、その心は繋がっていて、確かに、確かに毎夜愛を確かめ合ってきたのに。
「ああーーーっ」
「霞、霞……」
無理な体勢で時緒の盛った熱棒を押し込まれて、霞は悲鳴にもにた嬌声をあげる。
それは、悲痛な叫びだった。
今までで一番残酷な抱き方だった。
霞の了承などなにもない、時緒の欲望のままの抱き方。
霞はかすんで来る視界を必死に保とうと、唇をグッと噛み締める。
顔を壁に押し付けられ、腕は壁のフックにネクタイで縛られ、足は両足とも時雄様に持ち上げられ、地面についていない。
そして、時緒のモノで身体の中心を掻きまわされている。
僕のしてきたことは、無駄になってしまった。
ただ…ただ…時雄様と対等になりたかっただけなのに。二千万って言う僕の価値をなくしたかっただけなのに。
僕は時雄様と恋人になりたかっただけなのに。
「ああっ…ひゃあっ…」
時緒の肉棒はいつものようには動かない。
何度も何度も奥まで、奥までと突き上げて、霞の呼吸すら奪っていく。
「はぁっ……ぁっ…はっ」
もともと体力の無い霞は、肩で息をしながら必死にその暴挙に絶える。
けれど、時緒はそんな霞の行動を見れば見るほど無茶な抱き方を繰り返した。
「ひぅっ……時雄様、も…駄目…あっ」
先に達く事を普段から許されていない霞は、壁に押し付けられ、突き上げられるたびに壁に擦れ既に限界の自分の下肢が絶頂に達してしまうことを伝える。
時緒は鼻で笑うと、霞の顔だけを無理やりこちらに向かせ、唇に血のついた霞のピンクのそこにぶつけるようなキスをする。
「ふっ…んんっ」
相変わらずに甘い時雄様の舌が霞の中に入り込み、乾いた霞の口内に唾液を注ぎ込む。
蕩けるような感覚に、キスに没頭する霞の反応に、時緒はもう一度深く突き上げた。
「ああっんっ」
霞が一際綺麗な声をあげると、時緒は見計らったように、霞と繋がったままの体制で、窓際のカーテンを開いた。
霞には窓が見えないが、その何かを滑らせるような音でカーテンが開けられた事に気づく。
何故……?
霞は時緒の行動の意図が読めず、項垂れている。
「霞、ごらん、パーティの始まりだよ」
霞の漆黒の髪をグイッと引っ張り、窓のほうに向かせる。
その瞬間、霞は息を呑んだ。
「………っ!!」
それまで、喘がずにはいられなかったのに、霞の途切れ途切れに聞こえてきた切ない声は一気に枯れた。
時が止まったのかと思った。
霞は目の前にいるその人物が、本当にそこにいるのか、理解できずにいた。
けれど、その人は、確かにこちらを見て、絶句している。
ううん、違う……嫌悪している。
「……ぁあ…っ…見ないでっ…見ないでぇっ」
珍しく声をあらげた霞の琥珀色の瞳の中には、勤め先の会社の社長で、高校時代からの親友で……自分をずっと大切にして入てくれた竜馬、その人の姿がしっかりと移っていた。
口を開き、霞が男と繋がり、喘いでいる様から目が離せなくなっている親友の姿が。
「嫌っ……時緒様…こんなっ…こんなのっ」
「霞が悪いんだよ。俺に隠れて、他のやつに身体を開くから」
「違います、僕は、僕…あっ…」
再び突き上げられ、秘孔の奥の前立腺を擦られ、霞は涙を流しながら喘ぐ。
竜馬…竜馬…見ないで。御願いだから、見ないで。
時緒様との行為を恥じているわけじゃない。でも、これは違う。こんなの違うんです。それに、竜馬は……竜馬は、僕を好きだと言ってくれたんだ。
僕は時緒様が好きだから、その竜馬の気持ちには答えられないけれど、でも、でも……こんな姿を見せるなんて、あんまりですっ!
酷い、酷すぎます。時雄様。
涙を流しながら、必死に時緒の突き上げに答える霞は、本当に愛玩具のようで、竜馬は目をそらした。
これが、これが……霞の望んだ世界なのか?
あいつが、霞の……恋人だっていうのか?
苦虫を噛み潰したような表情でチラリと再び中を覗けば、霞を鳴かせている男がこちらをみて、勝ち誇ったように笑った。
「っ!!」
どうみても自分より年下の男に、鼻で笑われ、竜馬は屈辱的な気分になる。
でも。
ここから、霞を助け出す事が、最善なのか最悪なのかわからない。
霞の意思がまったく伝わってこないのだ。
竜馬に向けられる視線は、ただ一つ。
こっちを見ないで、という悲痛な叫び。
俺は、俺は……どうすればいいんだ。
竜馬は耳につく霞の高鳴る声が響くその庭から動けず、思わず耳を塞いだ。
霞を愛している、世界で一番愛している。
けれど、その霞をすくえるのは俺ではないのだ。
それがわかってしまった瞬間だった。
「ああっ……んっ…竜…馬」
「俺と繋がっている時に、違う男の名前を呼んでいいんだっけ?」
「ひゃあぁあん」
熱を帯びた指を、肉棒の透き間から中にいれられ、かき回される。
頭がおかしくなりそうになりながら、再び竜馬のいるはずの窓の外を見る―――が、そこにはその姿はない。
呆れたかな。絶望したかな。拒絶したんだ。
霞の頭の中に、竜馬を思っていたほんの少しの気持ちが流れ出てしまうかのように、涙が零れた。
それは、それは……決して恋愛感情ではなかったけれど。
「霞……なんで泣くの?」
時緒は霞の今までと色合いの違う涙を舐めると、問いかけた。
「ひっぅ……ふっ……僕…は…時雄様意外……愛して…おりませんっ」
こみ上げる嗚咽の中、胸のうちを伝える。
何度言っただろう。何度願っただろう。
けれど、時雄様には僕の思いはちゃんと伝わらない。
いつまでたっても、子供の玩具レベルなんだ。僕の存在は。
酷くされてもいい。捨ててもいいんです。ただ、僕を見て。僕を愛して。御人形じゃない、僕を見て下さい。
切願するように叫ぶ霞の腕を解き、床に優しく降ろした。
既に足にも腰にも力の入らない霞は、倒れこむように床に座りこむと、急に引きぬかれた内部に違和感を感じながら、だるい顔をあげ、時緒様を見た。
時雄様は相変らず冷酷な表情で霞を見下すと、ワイシャツの胸ポケットから何か手帳のようなものを取り出した。
でも、それは霞が手帳だと思っただけで、よくよく見ると、それは通帳のようだった。
今だ息が整わず、肩を上下させながら、霞は月明かりの中それを見る。
それは、紛れも無く、自分がこの部屋に隠してきた、あの通帳。水曜日のバイト代と、会社での給料を溜めに溜めこんだ、あの通帳だった。
「二百九十万円……結構貯めてたんだね。何このお金」
「そ、それは……、あの」
時雄様は僕が買われてきたなんて事実を知らない。だから、このお金の真意を伝えるためにはそこから説明しなきゃいけなくなるけど……。
でも、僕は時雄様に藤緒様の事を告げ口するような真似は絶対にしたくないし、それに……僕は……僕が買われてきたって、時雄様に知られるのが嫌だから……。
やっぱり、言えない、言えないよ。
「……すみません」
か細く聞こえた霞の言葉は、それしか語らなかった。
時緒は何も言わず、通帳を霞の傍に投げよこした。
「?」
もう二度と返してなどもらえないと思っていただけに、驚きの表情を隠せない霞に、時緒が笑って見せたのは、高級そうなウェディングドレス。
部屋の隅のほうに隠していたものを、出してきたらしい。
女の子なら一生に一度、どうしても着てみたいと懇願するような、素敵なドレスだ。純白仕様の布は、絹で作ってあり、肌触りが心地よい。その至るところに縫い付けられたダイヤは、着る人を引き立てる。
大きく刺繍を施された百合の花が、アップにも大胆に真っ白い宝石たちでつくられつけられていた。
これは……?
ますますわからなくて、霞は時緒様を見上げた。
「素敵でしょ、このドレス。霞にきてもらおうって思って」
プロポーズ……なんて都合の良い話が自分に下されるとはもう思っていない霞は、不安な顔色を浮かべる。
「花嫁をベッドで縛り上げて、誰にも見られないようにして毎日犯しつづける……って面白そうでしょ。霞も好きだよね、そういうの」
「ぁ、あの……時雄様っ…」
おかしい、何かがおかしい。
時雄様が女物の洋服を買ってきて下さって、僕に着させてえっちな事をするのは、いつものこだからいいんですけど。
違うくて。
だって……時雄様……怒って……。
「!!」
そこまで考えて、一つの結果に頭がたどり着く。
そして、霞は腕だけ伸ばしてさっき投げつけられた通帳の残高参照ページを開く。
「霞、これはお仕置きだよ」
「時雄様っ……」
残高参照ページのラストには、『お引きだし、二百九十万』としっかりと刻印されていた。
「ほら、着るんだ」
「ふっ……っ」
僕は今まで絶望とか、怒りとか、負の気持ちを考えないように生きてきたんです。そう思ってしまったら、僕の人生全てがそうなってしまうから。
でも、でも……これはあんまりです。時雄様。
僕は、もう……お人形でいたくないのに。愛玩物って見られたくないんです。
あつかましいくらいに、時雄様のことが本気で好きになってしまったから。
突き上げられるだけ突き上げられた腰は、ベッドからなかなか上がらなくて。
涙で歪んだ視界の中で、時雄様が厳しいお顔で睨んでくる。
「霞、二百九十万、どうするつもりだったの」
「……」
二度目のこの質問にも、僕は答える事ができなかった。
「俺から逃げる気だったとか?」
「そ、そんな事……考えたこともありませんっ」
僕にとって恐いのは、時雄様と離れることだけなのに。
「もう二度と……外には出さないからね、そのつもりでいてね、霞」
「時雄様っ!そんな……僕は…」
「口答えは許してないよ。ほら、早く着るんだ。それとも着させて欲しい?」
破けたワイシャツと、乱れたスーツのずぼんを見られ、僕はグッと息を詰める。
もう、駄目。
これ以上、時雄様の傍にいられない。
僕が時雄様と一緒に対等にいられるなんて、思い上がりにすぎなかったんだ。
「霞っ!?」
霞は乱れた衣服もそのままに、もがくように立ち上がり先ほど竜馬がいた庭に繋がる窓をあけた。
「……竜馬……」
名前を一応呼んでみるけれど、そこにはその人物はいなかった。
大きな目で、いつも社員を暖かく見守る目で、僕の事を驚いて見つめていた。
ううん、驚いたんじゃない、嫌いになったんだと思う。
時雄様に苛められるようにして、突き上げられているのに、甘い声を漏らしてしまう、そんな汚い僕を。
それでも、そんなことをされても、疑われても、諦めることが出来なくて、逃げることしかできない、そんな僕を……。
「ごめんなさい、時雄様」
「霞!?何をして……」
駆け寄ろうとする時雄様よりも早く僕は、窓に足をかけ、窓枠に座る。
少し肌寒い外の空気が火照った身体に良い刺激を与えてくれる。
「僕は、時雄様がいないと生きていけません。だから、だから……」
失うときの恐怖に耐え切れないんです。
時雄様は、ここ君島家の時期統領であり、いつかはお嫁さんをもらって幸せに暮らすでしょう。僕は、きっとそれでも時緒様を思ってしまうから。
僕は、きっと一生時緒さま意外を好きになれないから。
そんなことになったら、きっと壊れてしまうから。
「だから、消えるんです」
「霞っ!」
時雄様が手を伸ばした瞬間、僕の剥き出しの足は、綺麗に手入れのされた庭の土の中に落ちた。
何年ぶりかの土の冷たくも暖かい感覚に、幼い頃が蘇る。
時雄様に初めてあったときも。
窓からこちらに出てこようとする時緒様の姿を見止めて、僕は振り返らずに正門に走った。
後ろから時雄様の声が聞こえる。
逃げる僕をどうか許してください。
僕が全ていけないんです。
時雄様を好きになってしまったから。
手にもっていた残金で行ける場所といったら、近くなら大抵大丈夫だったのだけれど、霞には親しい友人といえば竜馬だけで、もちろん会いにいけるはずもなくて、結局霞は鳳町の桜さんの店にきていた。
「いらっしゃ……あら、トキオちゃんじゃない!」
ドアを開けた時に声をかけてきたのは、桜ではなくて、このお店ナンバー三の菫さんだった。栗色の髪がふわふわとしていて、本当に男の人には見えない。
「いやだ、どうしたの!その格好。まさか強姦されたとかっ」
霞のぼろぼろの格好を見て、菫は労わるように触れてきた。
霞はなんとか必死に笑みをつくり、大丈夫だと告げる。
「桜さんは……いらっしゃらないですか?」
「ママなら、奥に居るわよ。トキオちゃん来たって言ったら大喜びね。ママったら、トキオちゃんの大ファンだから。それに…ほら、店のお客を見なさい、ほら、みんな貴方に釘付けよ」
「そんな……僕は菫さんのが綺麗で素敵な方だと思いますけど」
なんの駆け引きも知らず、素でそんな事をいえてしまうから、可愛すぎるのに誰にも嫌われないのだ。
菫はきゅーんとして、霞を抱きしめる。
「もぉ〜本当、可愛い子」
「す、菫さん」
入り口近くで抱き合ってきゃあきゃあ騒いでいると、奥から出てきた真っ白い着物に身を包んだ、この店ナンバー一にどやされる。
「菫ちゃん!何遊んで……」
それはもちろん桜の声で。
霞は、ビクッとして身体を萎縮した。
「あ、ママ〜。ほら、トキオちゃんよ」
桜は、霞の姿を見つけると、その肩をつかみ、大きくゆさぶった。
こんな取り乱す桜は、普段では考えられないことだった。
「トキオくんっ…トキオ、あんた……どうして、その格好!どうしたの、一体。もしかして、さっきの男に……」
自分の目の前から霞を奪っていった憎き男の顔を思い浮かべて、桜は地団太を踏む。
霞は、あまりの桜の慌てぶりに、抑えるタイミングを失ってしまって、ごたごたの中、必死に否定する。
「ち、違います……りょ、竜馬は……」
その名前を口にしただけで、霞は涙がこぼれた。
僕はもうこの名前を呼べるほど、綺麗じゃないんです。
好きだって言ってくれた竜馬を傷つけて、悲しませて、悩ませてしまったんだから。
僕は…。
「関係……ないんです…」
「いやだ、トキオちゃん一体どうしたっていうの。ねぇ!」
取り乱した霞の表情に、何も知らない菫はあたふたと、その顔を覗きこむ。
そんな霞を抱きしめ、桜は菫から霞が見えないようにした。
「菫ちゃん、あんたはお客さんの相手頼める?」
この店には、桜目当てや、霞目当ての客が多い。桜は仕事にはうるさいし、私情を挟まないことで店の女の子の信頼を得ているのでも有名なのに、そんな桜がそう言ったって言う事は、緊急事態なのだ。
菫はそこまで読み取ると、OKサインを指で作って、ヒラヒラとしたスカートをはためかせ、お客さんの待つソファへと戻っていった。
桜はそれを見とめると、涙を流し続ける霞の肩を抱き、奥の社長室へと連れていった。
「トキオくん、何飲む…って言っても、あるのはお酒とウーロンくらいなんだけど」
桜は裏に入り、着ていた営業用の着物を脱ぎ捨て、化粧を落とし、少し長めに伸ばしている髪を後に縛りながら、話しかけてきた。
「いえ、僕は……」
桜の男の人バージョンは見なれているわけではないのだが、出会った日が男バージョンだったので、なんだか懐かしい感じもする。
こうしてみると、確かに男の人なのに、化粧や服装でいっきに女の人になれてしまうから不思議だ。
「駄目だよ。泣いたりした日にこそ、何か飲まなきゃ。霞くんはお酒はあんまり駄目だったよね、だったら、ウーロンかな?」
店の女の子たちが好きに飲めるように準備している飲み物の中から、ウーロン茶の缶を選ぶと、わざわざコップに氷まで入れて、霞の前に差し出した。
「はい、ほら、飲んだ。飲んだ」
「あ、はい……いただきます」
桜に言われるようにして飲んだそのお茶だけど、やっぱりさっきまで時雄様と抱き合っていたり、泣いていたせいもあってか、喉にジンワリと染み込んだ。
さっきまで掠れ気味だった声も、なんだか少し回復した気がする。
「美味しい……」
普段、食べ物や身の回りのことにテンで興味のない霞が漏らした一言に、桜は思わず嬉しくなる。
「―――で、何があったの?」
霞の方に、着替え様に桜のロッカーに置いておいたワイシャツとズボンを投げると、桜もお茶を飲みながら、霞の目の前のソファに座った。
霞はお茶を飲み干すと、赤くなった目をこすり、また少しうつむいた。
霞がお店に来た日から、桜は何も聞かない。こんな素性のわからない人間を店に置き、しかもとても良い待遇で働かせてくれる。そんな桜に、自分の何もかもを話すは義務でもあると思う反面、話して嫌われるのが怖かった。
もう誰にも……嫌われたくないのに。もう自分には何もなくなってしまうから。
「トキオくん、俺はね、強制しているわけじゃないよ。ただ、トキオくんは、俺に聞いて欲しいんじゃないかな、って思って」
「……怖いんです」
正直な胸のうちを伝えた。
「僕の……事知ったら、桜さん……僕の事嫌いになっちゃう……かもしれないから」
ぱちん。
頬を優しくぶたれる。痛いわけじゃない。
ただ、打った感じがしただけ。
それは、桜の手だった。
「俺は、トキオくんをそんな半端な気持ちで拾ったんじゃないよ。過去を知ったくらいで嫌いになれるほど、安い気持ちで店に置いているんでもないんだよ」
桜の言葉はいつも痛いくらいストレートだ。胸の中に入りこんできて、安心させてくれる。
霞は大きな色素の薄い目を見開き、桜を見た。
「僕の本名は…あの…霞って言うんです」
霞は一息すって、そして再び口を開く。
「たぶん……意味は、早く消えてくれるようにって……意味だと思うんです」
今にも涙が零れそうな笑顔で霞はようやくそこまでしゃべった。
「どうして?」
親が子供に最初に与えるプレゼントは名前。
ならば親は必ずその子が幸せになれるような名前を贈るはずだ。なのに、そう思ってしまうって事は、そう思わせる何かがあったっていう事だ。
幸せそうな笑顔をいつも飛ばしている彼に、そう思わせてしまうほど酷い何かが。
「……僕、両親に売られたんです」
「!」
「あ、あの……でも、あの、変なお店……とかじゃなくて」
弁解する霞の声なんてもう聞こえていない桜は、顔を青くする。
「店じゃないとしても、それって普通に考えて、体を売るところだったってことだろう!なんて……なんて親だ」
「貧乏だったから、しょうがないんです」
苦笑交じりに言う霞が愛しくて、今にも抱きしめてあげたくなる。
けれど大人な自分が止めて、それも出来ず、桜は長く伸ばした爪をソファに突きたてた。
「でも、僕、君島家に買われて……すごく、すごく幸せだったんです」
人を買うくらいの余裕がある家で君島…って言ったら……。
桜は財政界でもよく聞くスポンサーの名前を思い浮かべる。
「君島って、君島藤緒さんの家?」
「ご存知です……だったんですか」
「まぁ、このお店にだって、お偉いさんは来てくれるからね」
それにしても、まさかそんな君島氏に、少年を買う趣味があったとは。
「でも、幸せって事は親切にしてくれたんだ」
そんなわけないと思うけど。
今だって昔だって、男が可愛い子を買ってする事といえば二つ。虐めるか、慰みにつかうか、だ。
「はい!それはすごく……でも、僕は……藤緒様の大切な方を……お慕いしてしまたんです」
「藤緒氏の大切って……奥さんじゃないだろうし、あの家は息子もその嫁も確かいたけど、藤緒氏の息子嫌いは有名だし。もしかして、孫?」
「……物語みたいですよね」
自分でもわかっているんです。こんなの、変だって。
「時雄様っておっしゃるんですけど…」
「トキオって……」
霞の源氏名だ。
なるほど、そういうこと…か。
「世界の全てからいらない子ってされた僕を、信じられないかもしれないですけど、とても大切にして下さったんです。とても…とても強く愛してくださったんです」
僕より幼いはずの時雄様の愛は、僕よりずっと暖かくて。
何度、その暖かさに助けれらただろう。
お返しする事の出来ないこのご恩は、一体どうしたらいいのかな。
「でも、僕は買われた身で」
そう言うと、いつのまにか桜に抱きしめられた。
優しさで涙腺がついつい緩む。
桜の細いけれど強い腕に頭を凭れさせる。
「もちろん、そんな事言えなくて。だって、その事に別に不満があるわけじゃないんです。むしろ、時雄様と出会えただけで僕は幸せで……。だけど、だけど…」
そう、不満があるわけじゃないんです!
本当なんです、それは。
ただ、僕は…。僕は……。
「その状況を脱したかった?」
桜に言われ、小さく頷く。
「お金も、柵も、何もないところで、時雄様を愛したかったんです」
なんて贅沢な願いだろう。
僕はいつからこんなに贅沢になったんでしょう。神様。
神様、どうかいらっしゃるのなら、罪深い僕をどうか許してください。
「ただ……それだけで……」
「霞……」
「でも、もう駄目なんです。二千万……貯めて返そうって思ったんですけど。なくなっちゃって……」
お金が自然になくなるわけがない。
故意に誰かにやられた、と言うことだ。
この話しを推測すると、それを実行しそうなのは時雄か藤緒だ。そう思うと、切なくて、苦しくて、桜はぎゅっと腕に力をこめた。
「桜さんっ……僕、僕……」
「ここで一生暮せば良い」
「桜……さん?」
「今までみたいにバイトでもいいし、就職してもしてもいいし。住むアパートなら俺の家でも良いんだし。逃げてこいよ、ここに」
「……桜さん……」
桜さんの申し出は、今の僕にすごく、すごく嬉しかった。
嬉しかったんだけど、でも……。
「でも、僕……は…」
生きていけない。
時緒様を失って生きて行けるほど、強くないんです。
例え、他の誰かの大きな力が僕を守ってくださっても。
「霞……」
小さな声で霞を呼ぶ桜の声は震えていた。
だって、自分はこんなにも思ってはいるけれど、助けたいと思っているけれど、この子を守れるのは、自分じゃない、そうわかってしまったから。
きっと、さっきの男も……そう思って手放してしまったんだろう。
この子をきっとその最愛の人から離してしまったら、きっとこの子は死んでしまう。
そう、本当に感じたのだ。
「僕……どうしたらいいんでしょう……」
縋るように助けを求めてくる霞の温度をもう一度確かめるように抱きしめると、耳朶の傍のうなじで、桜は一つの案を囁く。
「え?」
なんで……?
「あの、それって……?」
首をかしげる霞から、身体を離すと、桜は霞の背中をバンッと一発叩いた。
「いいこと、絶対よ。じゃあ、ほらその日までに準備する事いっぱいだわ……あ、それまではお店手伝ってもらうからね」
「あっ、えっ、あの、桜さん!?」
戸惑う霞をそのままに、桜は店締めのため店に顔を出しに行ってしまった。
どういうこと……なんだろう。
続く。
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