ぱぱコン番外編
ほーむ すぃーと ほーむ
田宮家の朝はいい匂いに包まれている。
卵焼きや、パンやご飯。温かな家庭の匂いだ。
それを作っているのは、俺。
毎朝、大好きで大好きな息子、愛実の為に作るっている。
まぁ、仕事が忙しくない日は……って感じだけれど。
「おはよ、薫」
最近、『薫ちゃん』って呼んでくれなくなった、愛実が、今日も素敵で最高な笑みでいつもの定位置に座った。
これが、未来に向かうって事なのかな。
ねぇ、渚。俺達の子供は、俺達より随分大人みたいだよ。
「ね、薫……誉は?」
毎朝、毎朝煩く付きまとってくる誉が今日はいないから、不思議に思ったのか、愛実はきょろきょろと辺りを見回している。
「今日は朝早くから工藤さんが連れてったよ。早朝ロケだとかで。清々するね」
俺がニコッと言うと、愛実は苦笑した。
「薫って……なんか誉にはいつもきついよね」
「そりゃ、俺は愛実が大好きだから」
はいはい、って言うと愛実は再びパンに噛り付く。
大好きな人が目の前にいて、暮らしていける。なんて幸せなんだろう、と俺はふと思ってしまう。
昔の俺なら、こんな事は思わなかっただろうな……。
俺の家は少しおかしな家だった。
家には大人と言う人種は一人もおらず、いるのは女一人に、男二人の計三人。
三人とも確かに同じ親から生まれてきたはずなのに、どうにもこうにも似てなくて、それだけで噂の的なのに、なにかと浮いた話の絶えない家だった。
どうやらそれは、存在しないと思っていた大人達のせいらしい。
俺達が寝静まった頃帰ってきては、俺達が目覚める前に出かける。
その大人たちはどうやら二人いるようなのだが、俺はとりあえずソレと会話らしきものをした覚えが無い。
俺が生きてきた中で、唯一単語以上話している人といえば、姉である渚と、兄である誉の二人だけだ。
それだけで十分だった。
「薫ちゃん」
ちょっと気の抜けたような声は、家族の中でこの子だけについた特徴だ。
俺や誉は、こんな……響きが良く、心に届くような声は出せない。
「どうしたの、ぼーっとして。馬鹿みたいだぞ」
ウェーブかかった長い髪を、いつもどおり適当に一つに結い、渚はいつも通りの口調で低血圧で朝が辛い俺の顔を覗き込む。
「渚……薫ちゃんっての、もう止めない?」
「なんで」
「なんで、って……俺、もう高校生になるんだし」
「あら、あたしは大学生になるのよ」
こんな高校三年生がこの世にいるとは驚きだ。
服は未だにピンクハウスで買っているようだし、声は赤ちゃんみたい。いつもピンクに染まっている頬は真っ白な肌の上で何よりも輝いている。
「おー……って、薫が起きてる…」
「誉ちゃん」
俺と一つ違いなだけで、身長も体系も背格好、顔つきさえ全然違う兄の誉が、だらしない格好で俺の部屋のドアの外から中を覗いている。
この男も相当な低血圧なはずなのに……。
「起こされたんだよ」
俺が顎で渚を示しながらそういうと、誉はフッと少し笑った。
「だろうな」
「じゃあ、朝ご飯だ!何食べたい?」
誰よりも食べる気まんまん、作る気まんまんと言った渚の声に、俺と誉は顔を見合す。
渚は、紅一点のくせに、渚は兄弟一料理ベタだ。
前にただのチャーハンを作ろうとしていたらしいのだが、消防車を呼ぶ騒ぎになった事さえある。
俺はいまだちゃんと反応しない頭に、一瞬にして神経が通るのを感じた。
「待って……渚……俺が、俺が作るから」
「え」
なんで、って言いたそうな目で渚は俺を振り返り見た。
なんでって……。
「俺、渚の淹れたコーヒーがのみてぇんだよ。料理は薫に任せて、淹れてくれよ」
俺が言葉に詰まっていると、誉は滑らかにそう言ってのけた。
渚は少し考え込んで、ニコッと笑うと、そうだったの、と言いながらキッチン置くへと消えた。
残されたのは男二人。俺はなんだか何も言えずに立ち尽くしていると、誉は急に伸びをして、俺の背中を軽く叩いた。
「ほら、飯準備してくれよ」
「あ、ああ……」
俺は、渚が歩いて行った道を辿るように、キッチンへと入っていった。
俺達は三人だけで生きてきた。
渚と、誉と、俺。
不自由なんて無かった。望みなんて無かった。ただ、そこに華やかと言うものは無かったけれど。
俺の世界はそれで十分だった。
卒業後の進路はどうするのか、とか。恋人とか、結婚とか。未来を思うことは無かった。
現状維持。
それが今の俺の心に一番当てはまる四字熟語だった。
そして……。
「薫ちゃん、あたし卵、目玉焼きね〜。そして、両面焼き!」
「はいはい」
そして、俺の唯一の心の支えは、渚だった。
この家唯一の女の子、だからじゃない。
俺は自分で言うのもなんだけど、女の子に好かれない方ではない容姿をしているらしいから、誘いはいくらでもきていた。
同じクラスの子、年下、年上、大学生にOLさん。果ては男の人からも声をかけられた事もあった。
けれど。
「誉ちゃん、今日はブラック?それともミルク淹れる?」
「ぁー……、ブラック」
俺の世界に誰一人合う人なんていなかった。
俺は別に他人と疎遠な生活をしているわけじゃない。
まして、奢り昂ぶった生活をしているわけでもない。
そんな生活をしているわけじゃないんだ。
なのに、俺は世界のはみ出しモンみたいだった。
渚が居なければ……。
「薫ちゃんは?」
渚は俺の天使だった。
可愛いとか、愛しいとか、そう言った感情じゃない。
確かに渚の容姿は女の子女の子していて、他人から見たら可愛いのかもしれない。けれど、俺が渚を天使と言うのはそう言うことじゃない。
第一、 俺には可愛いとか美人とかそう思えた人は今まで誰としていないし。
愛しいとか、恋しいとか、胸焦がれるような恋愛をした覚えも無い。
ただ、渚は……。
渚は……。
「薫ちゃん?」
卵を裏返そうとしていた俺の目の前に、今しがた考えていた渚の顔が出てきた。
けれど俺はそれには驚かず、ニコッと渚に向かって笑い返す。
「渚のと同じでいいよ」
俺が言うと、渚もニコッと笑った。
天使みたいだ……本当に。
俺が笑うのは、渚の前でだけだった。
渚は俺の天使。
渚は俺を現世へと繋ぎとめてくれているたった一つの希望。お金も、頭も美貌も、未来さえいらない。俺には渚がいればそれだけでよかった。
たとえ……実の姉弟だとしても。
「薫」
渚は俺の後ろに居る。それなのに名前を呼んできたのは前にいる。
誉だ。
「何」
俺は無表情で答えると、誉は仕草で俺を自分の方へと呼ぶ。
またか、俺はそう思った。
「おい、抜け駆け禁止だぞ」
少し不本意そうに呟いた誉は、俺に男の目を向けた。
「抜け駆けじゃないだろ、笑うのは」
誉の世界にもやっぱり俺と渚しか共存できなくて。
誉にとっても、渚は天使だった。
「お前が笑うのは、渚にだけだろ。十分抜け駆けなんだよっ」
理不尽な言葉に、俺は思わず鼻で笑う。
誉はそんな俺の背中を再びバンッと叩いた。
殻に閉じこもった生活をしている俺達だからといって、倫理や理性がないわけじゃない。
だから、姉弟で結婚できない事なんてちゃんと知ってる。
でも、俺達は渚が大好きだった。
そして、渚も、俺達の気持ちをわかってくれた。
渚は俺達二人の恋人だった。
休みの日には三人で出かけたり、映画を見たいり、ショッピングしたり。家でも外でも俺達はいつも一緒だった。
俺は渚が好きだった。
誉も渚が好きだった。
渚も俺達を好いてくれていた。
それで十分だった……。
俺は、それで十分だったのに……。
でも、渚はそうじゃなかった。
ある日俺がいつものように学校から帰ると、いつもニコニコ顔の渚は、いつも以上に微笑み、そしてそれに反して誉は焦りきった顔で俯いていた。
何事にも動じないこの男が、一体どうしたのだろう。
俺は渚と誉の顔を見比べながら状況を把握しようとしたが、出来なかった。
「なんだよ……どうしたんだよ」
十五年間生きてきて、こんな状況初めてだった。
こういう時、笑ってこの場を収めれない自分を呪った。
渚は俯く誉をそのままに、俺の前までゆっくりと歩いてくると世界で一番大好きな微笑をした。
「あたし、今日から家を出るから」
「……えっ」
瞬間、何を言われたのかさっぱりわからず、俺は渚を見つめつづけた。
家を出る……って。
「赤ちゃんが出来たの」
あか……ちゃん?
「赤ちゃんって……」
だって、俺達は。
俺達は……。
「そんな……出来るはずが……っ」
俺は渚が大好きだった。
そして、誉も渚が大好きだった。
だけど、俺達が手を繋いで眠る以上の関係に進んだ事はいままで一度だってなかった。
セックスで交わる事に、そんなに意味を感じなかった。
俺達は、これで十分なんだって思ってた。
「ほ、誉、まさかっ……」
違うって思ったけど、まだ、そうあって欲しいって思ってか、俺は誉を睨みつける。
けれど、やっぱり笑ったままの渚が、俺の横でクスクスと笑った。
「誉ちゃんじゃないよ」
そう、きっぱりはっきり言われた。
大好きだった。ものすごく好きだった。
俺が、渚を抱けばよかったんだろうか。
誉が、渚を抱けばよかったんだろうか。
涙が自分でもわからないうちに溢れてきて、俺はどうしようもなく佇む。
「俺……が嫌いになった?」
普段感情を滅多に表に出さない俺が、涙を流しながらそういうと、さすがに渚も悲しそうな顔をした。
「大好きよ」
じゃあ、なんで……。
「誉ちゃんも、薫ちゃんも大好きよ」
「じゃあ、出てかなくていいだろっ」
「薫ちゃん……」
そう言われても、納得できるものじゃなかった。
俺の世界には、渚と誉と俺しかいなくて。
どれが欠けても、俺は嫌だった。
「薫ちゃんにも、誉ちゃんにも、いつかあたしより大好きな人ができるんだよ」
「そんなの出来るわけ無いっ」
神様、未来を望んだりしないから。
高望みしないから。
お願いだから、このままでいさせてください。
どうしてそれすらしちゃいけないんだろう。どうして……。
「薫ちゃん……お願いだから泣かないで」
荷物を何も持たずに、玄関から外へ出て行く渚を追う事も出来ず、俺はその場に座り込んだ。
言葉らしい言葉も発せぬほどに泣き叫び続ける俺を、誉はただただ抱きしめた。
「泣くなよ……」
泣いているんじゃない。涙が出てくるんだ……勝手に。
赤ちゃんの時だって、こんなに泣いた事はなかったんじゃなかったかな。
良く渚が、薫ちゃんは本当に手のかからない赤ちゃんだったのよ、って言ってたから。
「泣くなって」
「っ……」
頭に冷たい雫が落ちてくる。
その瞬間、誉も泣いているんだってわかった。
俺達は捨てられたのかな。
俺達は忘れられてしまうのかな。
大好きだった。
大好きだったんだ……。
「……泣くなよ……」
俺が言うと、さらに強く抱きしめられた。
何年も……いや、いままで一度だってこんな温もりを感じた事はなかった。
温かい……なんてこんなに心地よいんだろう。
俺は渚に、この心地よさを与えられなかった。
俺達は、お互いの涙が完全に出尽くすまで、抱きしめあった。
渚意外に大切なモノが出来る日なんてない。
俺はそう確信していた……。
その日は朝から雨が降り続いていた。
渚が出て行った日から、俺は一度も渚を見ていない。
俺と誉の会話の中で、渚の名前が言葉として出る事もない。ただ、どうしようもない存在感がそこにはあって、たまに目をそらさなきゃいけないほどに渚を強く思い出してしまうけれど。
何日たっても、何ヶ月たっても、何年経っても渚は俺達の前に電話一本よこさず、渚の中にいらないモノを作った男と一緒に暮らしているんだろうかと、たまにふと思ったりもした。
「薫」
もう、薫ちゃんと呼んでくれる人はいない。
呆然としたまま玄関から外に出ようとしていた俺に、声をかけてくれるのはいつも渚だったのに。
振り返ると、誉がいた。
「何」
昔より一層心の殻を被った俺に、誉は無表情のまま傘を突き出した。
「傘も被らねぇで行く気かよ」
そう言えば、雨が降っていたんだっけ。
「……傘」
「ほら、しっかりしろよ」
何をしっかりしろと言うんだろう。
何を望むと言うんだろう。
神様は地獄に落ちたんだ。
神様は俺達を見放したんだ。
いや、もしかしたら、俺達は生れ落ちた瞬間から神様に見られていなかったのかもしれない。
温かい家庭なんていらない。恋人なんていらない。狂おしいほどのセックスなんてしたくない。ただ、いて欲しい人が傍にいる生活がしたい。
それすらさせてくれない。
悪魔すら見方につかない俺達の未来なんて、たかがしれているじゃないか。
今だって死んでるんだか、生きているんだかわからない。
傘を手に持っていたけれど、別に被らなくても大丈夫な気がした。
「愛美〜っ」
雨に混ざって幻聴が聞こえるようになったのか、俺。
俺は傘を深くかぶって、何も聞こえないように何も見えないように目の前を覆った。
「愛美ぃ……もう、ほら雨で濡れちゃうでしょお……」
似てる……渚の声に。
ちょっと気の抜ける語尾を延ばした言い方とか、甘い口調。
「もうすぐ、もうすぐだからね」
……いや、俺が渚の声に似た人なんて見つけるのか?
俺が渚の声を聞き違えるわけが無い。
渚の声だ……これは。
冷静にそこまで行き着いて、俺は傘を道端に落とす。
「……渚」
呟くように言ったのに、こんな雨中なのに声は一直線にその人に届いた。
すれ違う寸前だった小さな赤ちゃんを抱いた女は、俺と目が合うと驚いたようだったけれど、すぐニコッと笑った。
ああ、これ、これ。
渚ってばいつも笑ってた。
三年くらいぶりに見た渚の笑顔が俺の視界に久しぶりに飛び込んできて、どうしようもない。
どうしようもなく……痛い。
「薫ちゃん」
ぎこちなくも無く、しなやかに零れたその言葉に、俺は違和感を感じる。
「ママぁ……」
違和感はすぐに気づいた。
渚の腕の中の小さな異物が行き成り騒ぎ出したから。
「愛美ぃ……もう緊張感のない子ねぇ。ほら、この人が薫ちゃんだよぉ」
渚は赤ちゃんの方を向き、満面の笑みで騒ぐ子をあやす。
「まなみ……?」
分かりきっている事なのに尋ねると、渚は俺の方を向いて俺に笑った。
「うん、この子の名前。愛に美しいって書いて、愛美よ」
ここにいちゃ駄目だ。
心がそう囁いた。
頭が信号を出している。
でも動けない。
足……動いてくれよ、腕でもいい。這ってでも逃げなきゃいけないんだ。
俺はここにいられない。
「薫ちゃん」
渚が俺の顔を覗き込み、笑顔でそう呼ぶ。
あの頃のままの声、あの時の声……で。
「薫ちゃんっ!?」
雨に濡れているのか、濡れていないのかすらわからなかった。
ただ、俺はとにかく我武者羅に走って、走って、走って、どの道を通ったかもわからないうちに家についていた。
どこで無くしたのか覚えてないけれど、家に着いた頃には傘はなかった。
「薫……お前何してんだよ、うわっ、ずぶ濡れじゃねぇか」
ドアを開けた瞬間、もしかして俺が出かけてからずっとそこにいたんじゃないかと思えるくらいタイミング良く、誉が立っていた。
息切れをして、顔色真っ青で、雨に濡れたままの格好の俺を見て、誉はその理由を問うわけではなく身体の心配をする。誉はこういうヤツだ。
誉の顔を見た瞬間、俺はどうしようもなくて、誉の身体に抱きついた。
あの日以来……渚が出て行ったあの日以来、俺は誉の体温をこんなに直に感じる事はなかった。泣くわけではないけれど、身体を震わせ動揺している俺の突飛な行動に、さすがの誉も少しは驚いただろうけれど、誉は静かに俺の身体を抱きしめた。
「薫……」
ぎゅっと言う音がして、身体が強く引き寄せられる感覚が、何故だかとても心地よい。
相変わらず誉は俺にその訳を聞いてはこないけれど、俺の口は自然とその言葉を発していた。
「……渚に会った」
一瞬、強く抱きしめていた腕が緩むのを感じた。
誉が驚いたのが、仕草や顔じゃなくて雰囲気でわかった。
「子供と一緒にいたよ」
顔も見なかった。
声もなるべく聞かないようにした。
だって、今きっと見たら、その声を聞いたら、存在を許したら、俺はきっとその子を壊してしまう。
俺はなんて小さな人間なんだろう。
「……ひっく……っ……」
俺達ではなしえなかった事をいともたやすくして遂げた見知らぬ男が憎い。
その男の血が流れている子供。俺の幸せを奪った子供。
でも、その子供に罪はないなんて、わかっているのに。
「愛美……愛美って言うんだって……ぅっ……ひっ、く……」
「もう良い」
嗚咽がこみ上げてきて、言葉がしゃべれなくなった俺の口を塞ぐように、誉は俺を抱きしめた。
それでも俺は、珍しく何かしゃべりたくて、呼吸の苦しい口を何度も開いていると、急に温かな温度に塞がれた。
「っ…んっ……ぁっ……」
温かい。
誉に初めて抱きしめてもらったときも感じた温度を、口内で感じる。
人と人が触れ合ったときの温度だ。
「もう良いから、黙って泣いて……ろ」
そう誉は言うと、再び俺の口元に温かな温度を運んでくれる。
言葉をしゃべる意味を失った口は、何度も何度も誉の温かな唇を欲してさまよった。
しばらくして、俺が落ち着いてからも誉は俺を抱きしめたままだったから、俺達は二人玄関で立ち尽くしていた。
「……ったく身体冷えてんじゃねぇか」
ずっと俺を抱きしめていた太い腕が頬に触れると、俺の体温がいかに下がっていたかがわかる。
「…風呂だな」
「え……ぁっ、おい、ちょ……っ」
ひょいっと軽々持ち上げられると、俺はいつ沸かしたんだか熱々のお風呂の中に服ごと落とされる。
景気の良い音をたてながら溢れ出したお湯は、排水溝へと流れ込む。
「誉……何すんだよ」
「あぁ?だって、お前かなり冷たくなってるし、俺もお前のせいで濡れちまったし、風呂なら暖まれるだろ」
誉にしては正論っぽい言葉をしゃべられて、俺は湯船に口まで浸かって身を隠す。
でも、やっぱり服を着て風呂に入るというのはなんとも不自然で、自分のおかしな様相と誉を見て、俺は思わず吹き出した。
「お、珍しいな」
「煩いな」
今日合った事を嘘のように忘れ、俺は風呂で誉と笑った。
温かな温度のお湯は、心の殻を取ってくれているみたいになんでも話せた。
会話が途切れればキスをして、キスが途切れたら抱き合った。
フワッと香る石鹸の匂いの合間にくる誉の香りに、妙に安らぎを感じて、また涙が出そうになった。
俺はいつからこんなに弱くなったんだろう。
俺は、なんでこんなに誉に頼りっぱなしなんだろう。
何年たったって、この家を離れる事も出来ないけれど、決して忘れられない。
だけど……。
「どうすっか」
お風呂から上がって、誉が俺の髪を乾かしながら誉がそう言った。
「誉は、会いたい?」
ちょっと間があってから誉は、さぁ、と答えた。
「お前は」
そう聞かれて、答えに悩む。
会いたかったのに、いざ会ったらどうしようもない負の感情に自分を殺したくなった。
今度会ったら、俺は渚に何をするかわからない。
自分が恐い、でもそれでも渚が大切だと言う気持ちは確かに残っていて……。
「わかんない」
正直な旨を伝えると誉は黙ったまま、ドライヤーを動かしつづけた。
未来なんてないと思っていたのに、変わることなんてあるわけないと信じていたのに、何かが動いているような予感に、俺は上手く自分をコントロールできずにいた。
だって、それは今までになかった事だから……。
髪が乾ききった瞬間、電話が鳴った。
俺達は電話をめったに使わない。だから、かかってくる電話といえば何かの勧誘くらいなんだけれど……。
「……田宮です」
いつものようにぶっきらぼうに電話に出た。
でも電話向こうの声はそんな俺の状況を不可解に感じるまもなく、事実のみを伝えてきた。
「え……?」
俺の送話口に向かってしゃべる声に、いつもとの違いを見つけた誉が近寄ってくる。
俺は受話器を慌てて耳に押しやると、三回返事をして切った。
「どうしたんだよ……」
「……渚が」
「渚?」
本日二度目に聞く事となったその名前に、誉は少し眉を詰める。
俺は誉れの腕をガシッと掴んで、たぶん顔面蒼白で言った。
「運ばれたって……東病院に……事故」
誉の運転する車で約二十分足らずの場所に、東病院はあった。
俺は誉に支えられながら受付まで行くと、大声で看護士に聞いた。
「あの……渚は、渚は……っ」
慌てて言葉にならない俺の肩を強く抱くと、誉は変わりに看護士の前に立っていた。
「田宮渚と言う患者がここに運ばれてねぇかな。女で歳は21くらい」
「救急に運ばれた患者さんですね」
看護士はペラペラと何かの紙を捲ると、この道を進んですぐの第二手術室で手術中です、と言った。
俺は真っ先に掛けていこうとしたけれど、看護士は俺たちを引き止めた。
「ご家族の方ですよね。手術費用とこれからの入院の手続きをしていただきたいのですが」
「――っ」
なんで常識とか、世間ってこうなんだろう。
何年も、十何年も世間から遮断された場所で生きてきた俺は、極力人と交わるのを避けていたせいで、よけいにそう感じるのかもしれない。
確かに俺なんか手術室の前で待っていたって、奇跡なんて起こるわけじゃないし、医者の手術がいきなり上手くなるわけがない。だけど、それでも、人一人の命が今どうこう動いているんだから、そっちを優先させるのが道義ってもんじゃないんだろうか。
「うっせぇっ!」
夜中の病院のナースセンターに、男の大きな声が響いた。
「誉……」
「百万でも、二百万でも払ってやるよ……。その前に、コイツを渚の傍にいかせてやるっつー気持ちはないのかよっ」
誉がこんなに怒鳴るのを始めてみた気がした。
もともと、気性は荒いほうだし体育会系並みのガタイの良さだし、声は大きいけれど、それを脅しのためになど使ったことは一度も見た事が無かった。
「す、すみません……」
ナースは慌てて謝ると、俺の前を歩き手術室はこちらです、と早足で案内をしてくれた。
この女の仕事とか都合とかもあるんだろうけど、今そんなのは俺の中で些細な事だった。
最低なのかもしれない。こんなんだから、親にも渚にも捨てられるんだ。
けど、でも……。
「ここです」
赤いランプで『手術中』とついた部屋の前で、ナースは元いた場所にさっさと戻っていった。
この中に渚がいる。
実感はないし、どうなるのかもわからないけれど、俺はベンチに座る事もなく、その入り口で立ち尽くしていた。
その隣には、誉もずっと一緒に……。
何時間たっただろう。足が痛いとか、腰が疲れたとかそういう感覚がまったくない上、窓も時計も近くにないから一体いま何時なのかがさっぱりわからない。
ただ、そろそろ朝かと心で思った瞬間、ランプが消えた。
「渚っ」
必死で手術室のドアを叩くと、誉にその腕を止められる。
だって、そうでもしなきゃこのドアが一生開かないような気がしたんだ。
なんでだか……わかんないけど。
「ご家族の方ですか」
いつのまにか出てきたのか、血が数箇所ついたままの執刀医らしき人が、俺と誉に話し掛けてきた。
「――弟です」
「……そうですか、じゃあ、こちらの部屋へどうぞ」
悪い予感がした。
良い予感ってのは滅多に当たらないのに、悪い予感ってのは結構当たるんだ。
今回もそれだと確信が持てた。
脳死。
たぶん、そんな事を医者は言っていたんだと思う。
俺が医者の前に座って、誉がその俺の肩に手を置いて話を聞いていたから、俺の方がじっくり聞けたんだけど、それでも耳に飛び込んでくる内容全てを把握する事はできなかった。
雨で視界が悪くなった交差点で、大型トラックが渚を直撃したらしい。
それなのに、おかしいくらい外傷は少なくて、やっぱりおかしいって思ったら、頭だけ……一番守るべき頭に一番打撃をくらってたって。
渚らしい……。
このまま装置をつけておけば、死ぬ事は無い。
でも、もう二度と笑うことも泣く事も、話し掛けてくることも無い……。
それを死と言わないで、何を死ぬと言うんだろう。
冷酷なまでに俺の心が囁いていた。
でも、俺の口から出たのはまったく違う言葉だった。
『嫌だ……渚を死なせないで……っお願い、お願いだから……っ』
吐息がある。鼓動がなる。脈がある。
今の俺にはそれで十分だったんだ……。
医者は、ああ、と言ってくれた。
病院から出ると、まだ外は真っ暗闇を少し脱した程度の暗い空で、俺と誉は何も一言も喋ることなく病院の入り口で立ち尽くしていた。
そんな俺たちの沈黙を破ったのは、大きな幼い子の声。
「待って……」
渚の声をもう少し子供にしたような声だった。
ほぼ同時に俺と誉が振り返ると、そこには……。
「渚……?」
誉が振り返った先にいた、小さな小さな生き物に向かってそう言った。
そう、そこには渚と瓜二つの健康そうな男の子が泣く事もせず、俺たちと同じように病院の近くで立っていたのだ。
「薫、まさかこの子が……」
誉が俺に向かって問いただすから、俺はウンと言葉なく頷く。
愛美君だ。
「家に帰らないの」
自然とそんな言葉が出た。
一晩前の、憎憎しい気持ちがまだすぐソコに残っていると言うのに。
不思議だけれど。
「ママがここにいるの」
「家はどこだよ、送ってくぞ」
誉は三歳児に向かってそう聞いた。どんなに頭の良い三歳児でも、さすがに家の場所まで覚えてないと思うんだけど。
けれど、愛美君は少し戸惑ってから、もう一度ママがここにいるから、と告げた。
まるで、昔の俺を見ているようだと思った。
俺にとって、あの巨大な家がホームだったんじゃない。
渚や、誉がいる場所が、家だったんだ。
「……お父さんは」
俺の口から出た言葉に、一番驚いていたのは誉だったようだ。
視線の端で、その驚き振りを確認し少し笑えた。
「いないよ」
愛美君は、きっぱりそう告げた。
「……そう」
渚はこの子を一人で育ててきたのだろうか。
あの渚が?
料理も出来なくて、洗濯なんてもっと出来なくて、おまけにドジで、でも世界で一番最高な母親なのかもしれない。
でも、じゃあなんで出て行ったりしたんだろう。
父親が逃げたのなら、家に帰ってくれば良かったのに。
俺たちの元に戻ってくれば良かったのに。
それほど渚は俺から離れたかったんだろうか……。
黙りこんだ俺に、ふいに愛美は手を伸ばし、俺の柔らかなねこっ毛の髪に小さな指を絡める。
「かおるちゃ……?」
「ぇ」
呼ばれたのは、俺の名前。
なんでこの子が知って……。
「ママがね毎日ゆってるの。薫ちゃんがね可愛いって、誉ちゃんがね元気で明るいって」
せき止められていたもの全てが溢れるように涙が零れた。
渚は俺たちの事を忘れてはいなかったんだ。
毎日、毎日、この小さな子がその名前を覚えてしまうくらいに、玄関で、リビングで、外で公園で……。
生活の中に、俺たちがいたんだろうか。
この子が、俺を……薫だとわかるくらいには……。
「?」
思わずぎゅっとその子を抱きしめた。
不思議そうな顔をしたその子は、黙って俺に抱きしめられている。
人を、誉や渚以外の人物を抱きしめたいと思ったのは初めてだった。
「かおるちゃん」
小さな手で、小さな腕を必死に伸ばして、その子は俺の背中に指を滑らし、抱きしめ返してくれた。
温かい。
ああ、抱きしめられるってこういう事か。
温かいってこういう事か。
ねぇ、渚。
渚はこの暖かさと毎日生きてきたの?寂しくなかったね、じゃあ。
なら、いいよ。
渚が辛く無かったならいいんだ。
渚が幸せだったら、どんな風に生きたって本当は良かったんだ。
ぎゅっと抱きしめてくれるその腕は、ぎこちなくけれど心地よい。
それは渚の腕でも、誉の腕でもなかったけれど……。
「愛実。俺たちの子供にならないか」
誉が、俺が抱きしめている愛実君に向かって唐突にそんな事を言った。
愛実君は返事はせず、首をかしげる。
愛実君はとても賢い子で、決してママは?等と聞いてはこない。
ただ、どうしたらいいのかわからず首をかしげているだけだ。
「俺と薫の子供になれよ」
俺の子供……?
一生……そんなモノとは縁がないと思っていた。
だって、俺は先の事を考える事なんてなかったから。
でも、けど……。
「……うん、なる」
二つ返事で、愛実君はそう言った。
こんな突飛以外の何ものでもない誘いに、愛実君はそう言ったんだ。
なる、って。
俺と誉の子供になってくれるって。
「ママがね、ほまれちゃんもかおるちゃんも大好きって言ってたの。だから、僕も大好きなの!」
小さな口を必死に開いて、おぼつかない言葉で、愛実君はそう言った。
なんて可愛いんだろう。
なんて愛しいんだろう。
今まで、花を見ても、犬を見ても、人を見ても、愛しいとも可愛いとも思ったこと無かったのに。渚を見てすら、俺の中に恋しいという気持ちは無かった。
なのに、なんでだろう。この子は違うんだ。
傷口を癒す薬のように、俺の中に簡単に溶け込んで、甘く甘く治癒し始める。
俺はこの子が恋しいんだと思う。
生まれて初めて、出合った奇跡。
「ほまれちゃんも、かおるちゃんも、ママも僕愛してるんだ」
感情をストレートに伝えられるこの子が羨ましい。
好きだ。
好きだ。
どしようもなく愛してあげたい。
どうしようもなく愛して欲しい。
天然の愛の形。
渚が起こした奇跡。俺たちの愛が起こした奇跡。
「愛が……実った子、だな」
「ぇ?」
誉がポツリと呟いたその言葉に、俺は顔を上げた。
「愛が実って出来た子で、愛実だろ」
「愛が……実った……?」
俺たちの間に美しい愛なんて一つもない。
醜く、残酷で我が侭で、そして我武者羅な子供みたいな愛がそこにはあって。
けれど、それでも愛し、愛されていれば、もしかしたら……。
もしかしたら、神様が子供を実らせてくれたのかもしれない。
もしかしたら、未来に進めるのかもしれない。
もしかしたら……。
「……市役所行って手続きしてこなきゃ……、ね」
未来を思った俺の言葉に、誉は一瞬驚き、そして笑った。
「親権の受諾と……漢字の変更って出来るんだっけか」
「大丈夫だよ」
きっと、大丈夫だ。
今なら、なんでも出来る気がするよ。
誉とこの子がいれば、なんでも出来る気がする。
「だいじょおぶだよっ」
俺の言葉を真似するように、愛実君が言った。
きっと大丈夫。
だって、俺たちはパパになってこの子を守らなきゃいけないんだもん。
愛さなくっちゃいけないんだもん。
今まで……誰にもあげられなかった愛は、この子のためのモノなんだ。
一生愛してあげる。
だから、少しでいいから、君の笑顔を頂戴。
愛しているから……。
「薫、じゃあ俺もう行くね!」
ご飯を食べて慌しく愛実は席を立とうとした。
「今日はいつもより早いの?送って行こうか」
俺が言うと、愛実はちょっと止まって……ううん、いいやと答えた。
――――アイツか。
愛実には最近やけに親しい男が出来た……。
クソむかつく……。
愛実は、俺たちの人間らしくないところとか、渚の抜けたようなところ以外を受け継いで、ものすごく綺麗に素直に育った。
だから、変な虫が近寄りやすい……。
俺の愛実なのに。
誉に報告のメールすると、今撮影中のはずなのに1分とたたずにメールが帰ってきた。
「愛実、今日は早く帰っておいで」
「え?」
「誉が一緒にご飯食べたいって。絶対だからね」
「う、うん、わかった。じゃあ、行ってくるね」
愛実のせいにして、三人でご飯を食べたいのは俺なのかもしれない。
だって愛しい家族なんだ。
何年かたって愛実が誰か好きな人を作っても、大人になっても、おじいちゃんになっても、きっと俺は君がずっと愛しいよ。
だって、愛しい家族だから。
終わり。
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