千年の恋は★やまとなでしこ

小説。 教師。 2


−1−


世間とは遮断された女子高――それがここ、LLC女学園。
 高い塀で覆われた学校は、外からではまったく見る事が出来ない。
 学園祭などにも家族すらはいることの出来ない、完全封鎖型の学校だ。ただし、外出許可さえ出せばちゃんと家には帰れる。
 当時、LLC女学園一年だった妹根本ヒトミが夏休みひょっこり帰ってきたと思ったら、何を思ったか、一つ年上の兄ココロに替わりに学校に行って欲しいと願ってきたのが全ての始まりだった。
 小さい頃から女顔で可愛らしい性格だったためか、保母さん、母、姉、親戚女一同に弄られ、苛められたため女性嫌悪症などという特異な病気もちになったココロはもちろん嫌がったが、根本家で男の意見などないに等しい。
 ココロは何が悲しいか、女子高に二週間妹の振りをして滞在する羽目になったのだ。
 そして、LLC女学園がいかなる学校かを改めて理解する事となった。
 そう、この学校は世間と遮断せざる理由があったのだ。
 なんと、この学校、教えているのは五教科……ではなかった。だからといって、商業高校でも、農業高校でも、もちろん工業高校と言うわけでもない。
 美形男教師が日々、隔離された城のような学校の中で教えていた事と言えば、キスの仕方、受け方、男の落とし方――!?
 純情ボーイココロは、もちろん呆気にとられるが……。
 女嫌いで、一生恋愛なんてできないと思っていたココロの運命の人は、ここにいたのだ。
 ここ、LLC女学園の美で固めた教師陣(つまり男)の中に。
「ココロ、おはよう」
 人を蕩けさせる術でも覚えているかのような声は、毎日聞いてもドキドキする。
 叶 英吏は目の前でネクタイを不器用に締める少しばかり年下の青年に言う。
「おはよ……ございます」
 普通にしゃべろうとして、慌ててココロは丁寧語にかえる。
 しかし、英吏は貴公子の微笑みで首を左右に振った。
「いいよ、ここはまだ僕のプライベートルームなんだから」
「ちょ、英吏……いいよ、これは自分で……」
 着替えを済ませしばらく黙ってみていたが、ココロは数分近くただのネクタイと格闘している。
 見かねた英吏が背後から手を伸ばすと、珍しくココロは拒絶の反応を見せた。
「……でも、それじゃあ俺が我慢できなくなるよ」
「え」
 英吏の一人称が僕から俺へと変わったときは要注意。
 何せ、もう既に六年近い付き合いだと言うのに英吏はココロに万年発病で、暇さえ見つければ手を出してくるのだ。
 昨日の夜だって、明日早いからと言っているのに決して離さず、結局英吏の部屋に泊まることになってしまった。
 英吏が起きる前に部屋に戻り、着替えを持ってきて着替えていれば、英吏はいつのまにかスーツをきちんと着こなし、ベッドで座っていたのだ。
 さすが、と言うか、なんと言うか。
「だ、駄目だって……英吏っ……仕事っ」
「大丈夫……ココロが真面目なおかげで、後三十分は余裕があるから」
「ちょ、んっ……」
 後ろに体よく準備されていた、英吏ご自慢のキングサイズのベッドに押し倒され、綺麗に着込んだスーツはしわを帯びることとなるのだった。合掌。

 教室へ走るココロに、たくさんの教師陣や生徒が見て声をかける。
「おはようございます、ココロ先生」
「やあ、おはようココロ今日も元気だね」
 ココロはまだ自分に馴染んでいないスーツを誤魔化すように、笑みで返していた。
 そう、ココロはこの春このLLC女学園の新米教師として赴任してきたのだ。
 高校を卒業間近になって進路を考えていた頃、妹のヒトミには必死に止められたのだが、恋人である英吏や、LLCの養護教諭の北条 宮や様々な教師陣に、是非と誘われたこともあり、それに、自分がLLCで学んだことは、とてもとても大きかった事もあり、決定してしまったのだ。
 よくよく考えてみれば、LLCで起こった事は良い事ばかりではなかったはずなのだけれど。
 でも、人生結果オーライ。
 終わりよければ全て良し、なのだ。
「あ、あの……ココロ先生」
 なんとかホームルーム前に教室に辿りついたココロが身だしなみをチェックしてから教室に入ろうとしていると、一人の生徒が声をかけてきた。
 ココロのクラスの女の子だ。
「ああ、木下さんどうかしたの?」
 人を安心させるようなこの微笑みは、ココロにしか出来ないと良く英吏に褒められる顔だ。
「あの、その……相談があって、昼休み空いてますか」
「うん、全然大丈夫だよ、じゃ、昼休み俺の部屋で待ってるから」
「は、はい!」
 それまで沈んでいた女の子の顔は、急にパァァと明るくなった。
 ココロはそれだけで、とても嬉しくなってしまうのだった。
 ココロが赴任してきてから、こう言う状況は珍しくない。
 美形教師陣の中に一本だけ咲いた、可憐な大輪、ココロ。教師たちが可愛がりたくなる気持ちもわかるが、生徒にだってそういう気持ちは芽生えていたのだ。
 嬉しいか、悲しいか英吏たちのように、滅多に恋愛対象にはされないみたいだけれど、それでも可愛い可愛いココロ先生は、友達であり、先輩であり、先生であり、大人な、不思議な立場にあるので、良く相談を持ちかけられているのだ。
 実際、今日の放課後も一件相談が入っている。
 家のことだったり、友達のことだったり、恋愛のことだったり、様々だけれど、LLC独自の悩みというのもある。
 昼休みになり、木下さんの相談を聞くと……。
「わ、私、ちゃんとキス上手になっているんでしょうかっ」
「ぇっ……」
 そう、こういう話題だったりするのだ。
 LLCに二週間通ったあの夏も、もちろん今でもLLCのこの教育はまだ馴染めないところがある。
 ちなみにココロは普通の数学担当の普通の教師なのだ。
「だ、だって、私って中学まで本当にそういうのに疎くて、周りの子は学校の外にいっぱい彼氏がいらっしゃるのに……」
「か、彼氏がいっぱいいるってのは別に良い事じゃないと思うけど……」
 ココロなんて、初めてキスして、初めてエッチしてしまった相手ともう既に六年付き合っている。
 運命の出会いを信じているなんて言ったら、女の子みたいって笑われるかもしれないが、ココロは運命や、宿命と言う言葉を強く信じていた。
「キスって焦って上手にならなくても良いんだと思うよ」
「ココロ先生ぇ」
「ここは、そりゃそういう事を教える学校なのかもしれないけれど、でも俺はそうは思わないんだ。好きな人とキスしたいって思えば、自然にできるようになれるよ」
 清楚そうな女の子なのに、やっぱりこういうことは考えてしまうのかとちょっと複雑になりながら、ココロはその子の頭を撫でてやる。
 すると、その子は急に元気になったのか、スクッと立ち上がり、ココロに一礼した。
「先生っ!ありがとうございますぅ。そうですよね、好きな人が出来ればキスって上手になりますよね、あたし好きな人つくるようにがんばります」
「ぇ、あ、あの木下さん……」
 何か論点がずれたような、と思いながらココロが引き止めるのも聞かず、いざ彼氏をつくらんと木下さんはココロの部屋――もとい数学準備室から出てってしまった。
 LLC女学園はもともとお嬢様学校で、女の子と言う立場でありながら会社を担う御曹司たちが将来の伴侶をゲッチュするために作られた学校で、生徒みんな、金持ち、美形、性格良し、頭良しなんて好物件を探している。
 そういうところに、華を感じなくなるんだけれどね、なんていうのは養護教諭の北条 宮。
 ココロとしては、みんな可愛くて、恋愛に一生懸命なだけだからそうは思わないけれど、本当……本当の恋ができればいいなって本当にそう思うのだ。
「はぁ」
 自分の相談なんてそんな役に立っていないんじゃないかなって思いながら、ココロは数学準備室で頭を項垂れた。
「ココロ」
 ふいにドアの向こうから、一番聞きなれてて、一番まだドキドキする美声が聞こえココロは跳ね起きる。
 ココロの返事を待たず、その声の主はドアを開けると、教材と器具が密集した数学準備室に足を踏み入れた。
「英吏!……じゃなかった、叶先生……」
「真面目だね君は……まぁ、叶先生っていうのもなかなかそそるけど」
 冗談ふかして、英吏はココロの座るイスの隣、さっき木下さんが座っていたイスに腰掛けた。
 英吏が座ると、安いパイプイスも高級な感じに見えてしまうのはなぜだろう。
 ココロは目線がほぼ一緒になった隣の人を見つめる事が出来ず、恥ずかしさから顔を背ける。
「え、英吏っ……何言って…」
「君はすっかりうちの学校の人気者だね、相談役にはもってこいだって…誰もが言っているよ」
 英吏の細い指がココロのすーっと通った顎にかかる。
 この指には何か魔法でもかかっているのか、この指に囚われると自然とキスがしたくなってしまうのだ。
「俺はヤキモチ妬き通しだ……」
「んっ、ちょ、英……」
 触れるか触れないかの軽い啄ばむようなキスだけで、ココロは英吏の身体を優しく引き剥がす。
「ここ……学校では駄目だって……っ」
 英吏の綺麗さと、恋人の視線に酔ってしまったからと言って、冷静に周りを見ればそこはただの数学準備室。
 ココロの現在の聖域で、職場なのだ。
「生徒の話は聞いてくれて、俺の話は聞いてくれないのかい」
「そ、そういうわけじゃない、けど……、でもキス……とか」
 それ以上は駄目、と付け加えようとしたココロの男の人にしては小さな手を英吏は何気なくとり、自らの口へと運ぶ。
「ふっ……ぅっ…英……」
「何」
 欲情でもしていたのかと思うほど濃厚な唾液の溢れる口内に人差し指を含まれ、ココロは切ない声をあげる。
 何気ない仕草だけれど、学校で…職場でやられるってのはまたちょっと違う禁断な感じが付きまとい、ますますお互いの気持ちを昂ぶらせる。
「まずいって……人…来るし…ここ」
 LLC女学園の数学教師は五人。そんなに教師がいても、準備室はそれぞれ個々に与えられているから、他の教師がここに来る事はまずない。北条や、和泉京太郎(家庭科教師・兼コックさん)なんかは、たびたび会いに訪れてくれてはいるけれど。
 そして、今は授業時間。生徒が来る事もない。
 英吏はちゃんとココロの時間割と、自分の時間割を裏で工作済みなのだ。
「俺はこれ以上はしない……あとは、ココロ次第だよ」
 何もしないと言いながら、親指の爪と皮膚の間をザラリとした感触で舐められ、身体がピクンと跳ねる。既にぬるぬるになった人差し指が、艶めいていて、なんともいやらしい。夜の何かを想像させるようなその舌遣いは、英吏のテクニックを駆使しての誘惑以外の何ものでもない。
「やっ……ってば……」
 嫌だとは口では言っていても、砕けそうになる腰はいきなりよくなるわけでもない。ココロは英吏の虜にさせるような視線から離れたくて、顔をデスクにうつ伏せながら必死に身体が疼くのを抑える。
 こんな英吏と六年近く付き合っていながら、ココロはやっぱりベッド以外での行為は恥ずかしくてしょうがないし、愛の言葉一つ聞くだけで嬉しくなり、愛の言葉一つ囁くのにもドキドキするような純情少年そのままだった。
「もっ……お願いっ……英吏ぃ」
 熱に浮かされ、言葉は絶え絶え、息は荒く、そして既に瞳は潤んでいる。
 六年でココロの純情さは変わらなかったが、英吏のエッチな行為に対しての反応は随分色っぽくなった。
 恋愛に染まっていなかったココロを抱きつづけ、自分に最高の快楽を与えてくれる相手につくりあげた英吏は、もはや現代の光源氏とも言えるだろう。
「んんっ」
 英吏の策略にはまり、わけのわからない懇願を口にしながら、よもや今日まで避けてきた仕事場でのエッチに突入かと思われた矢先、準備室の扉がガタガタと音を出した。
「!?」
 一瞬にして、ココロは神経の全てをそちらへと向ける。
 蜜のような時間を奪われて、英吏は小さなため息と共に肩を竦める。
「大丈夫。鍵は閉めてあるよ」
 英吏が慰め程度にそう言ったが、ココロの動揺した心をそう簡単には静める事はできなかった。
 英吏の事は大好きで、たぶん、いや、絶対この人以外と恋愛したいと思うことはないだろうけれど、まだ、どんな人にもカミングアウトできるようなものではなかった。
 教師陣の間では知っている人も多いが、もちろん知らない人も多く、家族ではヒトミだけが知っているこの秘密の恋。
 高校生のときもその秘密の大きさを抱えながら生活していたが、大人になってますますその巨大さを身で感じる事となった。世間の普通の一般論。それとは別な自分達の恋愛を、ココロはまだ他人には打ち明けられないでいる。
 英吏は怯えきった様子のココロの背中を穏やかに撫でてやる。
「ココロ……落ち着いたかい。大丈夫だよ、そんな声も出してなかったし…」
 冗談を込めてそんなことを言うのは、ずっと口外したいと断言してきた英吏からのココロへの最大の優しさだ。ここで笑いでもつけなきゃ、たぶん話はもっと深刻な方へ流れてしまうだろうから。
 鍵が閉まっているのにも関わらず、ドア向こうの人物は只管ココロの部屋の扉を開けようとしている。
 ココロは濡れた指と口先をハンカチで拭うと、英吏と顔もあわせず立ち上がった。
 正確には、合わせたくても合わせられないと言うのが本当だろうけれど。
「い、今開けます……」
 ココロが慌てて返事をすると、少しムッとした表情の英吏がそれより先にドアを開けた。
 どんなにココロより年上だと言っても、まだまだ中身は嫉妬妬きの英吏様そのものなのだ。
「ココロセンセっ……あっ」
 ドアの鍵を外したとたん入ってきたのは、生徒の一人。
「また君か……大鳥美和」
 生徒に嫌な顔をする事なんて滅多に無い英吏が、あからさまに眉と眉の間に皺を寄せ、その少女を見た。
「それはこっちのセリフだってば、なんで毎回毎回ココロ先生の所にいるわけ?また苛めてたんじゃないでしょうね」
 呆然と立ち尽くすココロと、目の前の厳つい顔をした英吏を交互に見やりながら、大鳥と呼ばれた生徒は腕組をする。
「教師で先輩である僕が、教師の後輩であるココロに何か教えにきてまずいことでもあるのかい」
 生徒に対してはいつも大人の余裕でかますのに、英吏は大鳥に食って掛った。
「あら、大有りよ。ココロ先生は、叶先生だけのモノじゃないのよ。それに、この学園で超人気のある最高の教師なんだからね。叶先生なんかに教えていただかなくても平気よ、ね、ココロ先生」
「ココロっ」
「……英吏…先生、美和ちゃん……二人とも落ち着いて」
 ココロは一生言い争いそうな二人に静止をかけた。
 大鳥美和は、ココロに言われると素直に黙り、視線で英吏にアッチ行けと信号を送る。まるで子供のけんかだ。
 しかも、英吏はそれに乗っていくから悪いのだ。
 英吏は美和を見下ろすと、ココロに向かって最高の笑みを飛ばす。
「じゃ、ココロ、また来るよ」
「一生来なくていいです」
 ココロの替わりに美和が返事をしたおかげで、今日はココロは英吏のご機嫌取りをしなきゃいけないなと、苦笑した。
「ね、ココロ先生、あたし毎日ここに着て迷惑?」
 英吏が退散した後、美和は自身満々な風に正直にそう聞いてきた。
 その言葉に不安の影も何も無い。
 ココロはそんな彼女の生まれつきの性格がとても羨ましいと思えた。
 自分は男の癖に、いつもヒトミや母、姉のミミなどに文句の一つも言えないようになってしまったから。まぁ、言ったとしたら最悪の結果になる事間違いナシだろうけれど。
「迷惑なんかじゃないよ……英吏先生はちょっと美和ちゃんをからかってるだけだから」
 ココロがニッコリ微笑んで言うと、美和は嬉しそうに笑った。
 まだ、女の人って恐いって思うときはあるけれど、こう言う風に笑うとき、すっごく可愛いなって思うようになった。
「ったく、なんであたしばっかりあんな扱いしてくんのかしらっ」
 美和は、目の前のココロのデスクをドンと大きな音を出して拳で一叩きする。
 美和はやや粗暴なそぶりからは想像もつかないが、実はこのLLC女学園の中でも有数のお嬢様だった。しかし、お父さんが、株から土地から幅広く手を出しているいわゆる多角的経営でここ十数年のうちに実力を伸ばしたようで、伝統や格式は一切無い。そのためか、自由奔放に育てられたらしく、ここに入学してくるお嬢様とは一味も二味も違う感じだ。
 喋り方から、歩き方、身のこなしに至るまでをもこのLLC女学園では仕込むのだが、だいたいのお嬢様たちは幼稚園時代から習ってきていることもありそつなくこなすのだが、美和は一般人と同じように、一からのスタートだった。
 そのせいか、クラスでは少し浮いている存在でもあった。
 そんな美和が心配で声を掛けたのはココロの方からだった。
「美和ちゃんは今までLLC学園にいた子とちょっと違うから、英吏もなんだか楽しいんだよ」
「そうかなぁ。だって、この前だってねあたしが授業中寝てたら思いっきり頭叩くのよ。しかも口語辞典で!信じられないっ」
 怒りを口調に混ぜながらも、彼女の弁舌は滑らかだ。
 話したいこと、全てがココロに伝わってくる。
「英吏らしくないね」
 クスクスと笑いながらココロが言うと、美和はフーン言いながらとココロの方を向いた。
「普段のアイツってどんな感じなの。ね、やっぱりあたしにだけああ言う態度なの」
 美和は身を乗り出して、ココロの方に詰め寄った。
「誰にでも優しい人ではあると思うんだけど」
 実際、英吏は一人称を『俺』『僕』と私生活と学校生活とで使い分けるほど、生徒には慎重に接している教師のほうだ。
 宮なんか、喜んで保健室にくる生徒を作ってしまうほどアバウトなLLCらしい付き合い方をしているのだ。それに比べると、英吏が断然教師らしく見えるのは恋する欲目ではないだろう。
「あたしにだけ態度が違うなんて信じられないっ」
 怒り奮闘しながら、美和はイスの背もたれに背を預けた。
「いつもあたしだけ怒るし、あたしだけ呼捨てだし、それに……」
 戸惑うことなく美和の口の中から飛び出す英吏への文句に、ココロは少しだけ違和感を覚える。
 妹のヒトミに無理やり見させられた少女漫画の主人公のような錯覚を覚えたのだ。
 好きな人がいるのに、その人にはいつも意地の悪いことばかり言ってしまう……そんなよくあるストーリー。
 今の大鳥美和はそれに類似してはいないだろうか。
 もし、この文句がただ悪い部分を指摘しているのではなく、自分の存在を知って欲しいという合図だったら。
 不安がひとたび出来ればそれは消えることはない。
 思い返せば、彼女がいつもココロに話に来るのは英吏のことだった。
 英吏先生が何かした、英吏先生が怒った、英吏先生が叩いた……。
 どれも文句や詰りに近い言葉ばかりで、実際英吏と鉢合わせになっても憎々しい言葉をかけるだけだから気づきもしなかったし、考えもしなかった。
 まさか……。
 胸の奥がドクドクと言って、呼吸を乱す。
 声が裏返らないようしながら、淀みなく喋りつづける彼女の言葉を遮った。
「ねぇ」
 ココロの小さな呼びかけに、美和は聞き返す。
「美和ちゃん、英吏……先生のこと……好きなんじゃない?」
 言ってしまって、しまったと思ってももう遅い。
 美和の表情が少しだけ変化するのに気づき、ココロは酷く心の中をかきむしられるような気がした。
 少女から女の顔へ変化したのだ。
「ぇ……何それ、変な冗談っ……」
 いつもの大鳥美和の性格そのままを装ってかわそうとしているのだが、その言葉には多少なり違和感が残る。
 演じているからこその違和感。
 俳優でも、自分自身の普段の状況を演じるのが最も難しいとされている。
 彼女にはそのなんとも言えない不調和さがあった。
「気に……なるんだよね。英吏…先生のこと」
 後悔するよりも真実がまず知りたかった。
 怯える気持ちを抑えつつ、ココロは美和に話し掛けつづけた。ただ、美和に話し掛けているのは自分とはまったく違う人物のように思えた。
 自分はガラス張りの向こうの世界から見ていて、美和は根本ココロという人物に話し掛けられている。そんな感覚だった。
「気になるって言ったって、あっちがただあたしを……」
「うん、気にかけて欲しいんだよね」
 だから授業中もわざと寝てしまうのだ。
 怒られるために。
 英吏に自分を覚えてもらうために。
 恋愛経験がいくら英吏にしかないからと言って、ココロにその気持ちがわからないわけではなかった。
 気づいてしまったから、切なさはますます増すのだ。
「自分を…他の子とは違うって思って欲しかったんだよね、ちょっとでも構って欲しかった……そうじゃない?」
 声は少し震えていたけれど、美和はそれには気づかないようだった。
 彼女は耳まで真っ赤にして、コクンと頷いた。
 普段、じゃじゃ馬だ、異端児だと罵られる彼女が、お嬢様のように恥らってそう頷いたのだ。
 ココロは何も言えず、ただ美和を見つめてしまった。

 授業が終わると、放課後きまって大鳥美和はココロの元へ訪れた。
 今日何があった、何を食べた、どんな事件があったなどを事細かに説明したあと、必ず英吏の話を持ち出した。
 今日着ていた服の様子、機嫌、授業内容。
 本当に英吏のこと良く見ているんだなとココロが感心してしまうほど、彼女の観察力は鋭く、その話を毎日聞かされるごとに、ココロは言いようの無い圧迫に押さえ込まれていく感じがした。
「ココロ先生って、でも英吏先生と仲いいよね。なんで?」
 急にそう問われて、ココロは小さく、ぇっ、と聞き返した。
「だって、英吏先生ってば暇さえあればここ来るじゃない。そんなに暇な人でもないのにさ。ココロ先生って、教師になってから英吏先生と会ったのよね。どうやってそんな仲良くなったの」
 本当に良く見ているんだなぁ……ココロは何故か少しだけ冷静にそう思えた。
 いや、人間というのは本当の恐怖や混乱に陥ると逆に落ち着くらしいから、そういう状況なのかもしれない。
「ほ、ほら俺一番年下だし心配なんじゃないかな。ちゃんと授業できるか……とか。それに、英吏だけじゃなくてこの部屋にはいろんな先生が来るでしょ」
 実際、英吏がいるときを見計らって宮や京が遊びに来る事もしばしばだったから、美和とも何度も遭遇していた。
 ううん、今から思えば英吏がいるのを知っていて美和は遊びにきていたのも知れない。
 ココロが嘘を交えないように、本当だけを連ねてどうにか取り繕うと、美和は少し考え込み、頷いた。
「うん、そういえばそうだよね。英吏先生はあれで結構優しいところあるからね……あ、この前もねあたしが教科書忘れたんだけど、教科書で叩く振りしてあたしの前に置いてったの」
 嬉しそうに他人に好きな人のことを話せる美和を、ココロは羨ましいと感じた。
「まさか、英吏先生がココロ先生好き――なんてことはないよね」
 冗談風吹かせて、美和は大爆笑の渦の中そういった。
 ココロが笑えず、顔を固まらせている事なんて知らずに。
 素直に、好きですといえることがどんなに勇気のいうことかこの子は気づいているのだろうか。
 いや、美和にとってはそれは人生のすばらしい出来事の一つで、誰に知られようが、誰に文句を言われようが気にならないくらい普通のことなのかもしれない。
 じゃあ、ココロにとっては……?
 英吏のことを、こんなに好き、好きといってくる彼女に、何も言い返せない自分ってなんなんだろう。
「あたしやっぱり、英吏先生が好きだな」
 直撃だった。
 嘘、偽りなんてまったく無くて、あるのは何ものにも替えがたい真実のみ。
 エイリガスキ。
 ココロは胸が痛くなって、美和にばれないようにして俯くと心臓を掴んだ。
 英吏が好き、英吏が好き、英吏が好き。
 英吏には何回も、何十回も、何百回も囁いてきた言葉だけれど、決して他人に言う事はなかった。
 それは、禁断の恋だから。
 男であるココロが男である英吏を好きになってしまったから。
 けど、でも、それは……。
 それは、ただの言い訳でしかない?
「ココロっ」
 顔色が真っ青になりかけていたココロの部屋の扉の向こうで、声がした。
 声の主は、ノックなんてすることも無くドアを開けた。
「……英吏……先生っ」
 ココロが動揺し、美和が喜んでいるのを、誰が想像できただろう。
 人の気持ちに察しの早い英吏すら、この部屋の中の関係図を作りかねていただろう。
 英吏はココロを見て笑みを浮かべ、大鳥美和を見て、苦々しい顔をした。
「また君か……大鳥美和」
 その正直喜んでいるとは言いがたい顔を向けられて美和は幸せそうな顔をするのだ。
 ココロの純真で小さなハートが『苦しい』と訴える。
 ただし、ココロの胸の中でそっと。
「何よ、それはこっちのセリフよ」
 今まで聞き流す程度に聞いていたこの言葉も、今から思えば美和の最大の意思表示だったのだ。
 英吏に自分を特別に思って欲しいがための。
「お前はまた教師に向かって……。さあ、もういいだろ、僕はココロに用があるんだ」
 拒絶のような言葉に、美和が少し顔を曇らせるのがわかった。
 たぶん、ものすごく傷ついているのだろう。
 ココロが今、心臓の重みで倒れてしまいそうなほどに。
「わかったわよー……じゃあね、ココロ先生またね」
「ぁ……っ……」
 英吏が入ってきたとたん、口数の少なくなったココロの様子を気取られたのだろうか。
 ココロは視点の合わない顔で、地面を見つづけた。
「ココロ、どうかしたのかい」
 大鳥が出て行ったことを確認して、英吏はココロの傍で声をかける。
「英吏……っ」
 どうしてだろう。
 最も愛しく、安心できる笑顔を見て今は心が痛くなる。
 だって、この人はココロの最愛の人でありながら、大鳥美和の思い人でもあるのだ。
 ココロがずっと、可愛いと大切にしたいと感じていた生徒……の。
「っ、英吏っ……んっ」
 俯いていたココロの顔を上げさせようとしたのか、英吏は見上げるような形でココロの唇にキスする。
 ほんの触れるだけのキスだった。
 イタズラ心の簡単な啄ばむようなキスだった。
 けれど、ココロの小さくそして大きな不安を抱えた胸はそんなキスすら受け付けられなかった。
 たった今まで、大鳥美和のいたこの部屋で、自分は美和の好きな人からキスをしてもらうなんて。
 それは、裏切り。
 それは、残酷な純愛。
「嫌っ……駄目っ」
 学校内でキスすることも、もちろんその先をも拒否するのはいつものことだが、ここまで嫌がるのは初めてだった。
 両手で英吏の顔を押しのけ、イスごと全身を英吏から離す。
 一瞬にして、不思議な空気が数学準備室に漂った。
「ココロ?」
 明らかに、ココロの様子は尋常ではない。
 小さな身体を震わせ困惑して、自分でもどうしてなのかわからないと言う顔をしている。
 恥ずかしがっているとか、倫理に反するとかそういうことじゃない。
「ぁっ……俺、あの……」
 こんなにまで拒絶するつもりはなかった。
 ただ、頭の中がざわついて離れないのだ。
 『あたしやっぱり、英吏先生が好きだな』
「ご……ごめん…英吏…」
「もうすぐクリスマスだし、今度のクリスマスはどうやって過ごそうかなって話しに来たんだけどね……」
 謝っても遅かった。
 英吏は身につけていた白衣を脱ぎ去ると、ココロのデスクに乱暴に投げつけた。
「何かあった?」
 英吏のいつもより少しトーンの低い声に、ココロは必死に首を横に振る。
「な……にもっ」
「ないわけないよな……」
 瞳をじっと閉じて首を左右に振っているのにも関わらず、英吏が近づいてくるのがすぐわかった。
 さっき一瞬触れた唇が少し震えた。
「最近ココロは忙しいのかと思ってたけど」
 ココロは最近夜を英吏とは過ごしていなかった。
 いや、正確に言えばあの告白を大鳥美和から受けた日からだ。
 何かと言い訳をつけて、夕飯を一緒にとることも、ましてプライベートルームへ行くことも避けていた。
 ココロは図太い人間ではなかった。
 英吏を好きな人がいるというのに、それを自分が知っているのにも関わらず、英吏と夜を過ごせるほど傲慢な人間ではなかった。
「夜、俺の部屋に来ないのは、何か別の理由…?」
「っんっ……やっ、英吏っ……」
 ココロの両手を片手でまとめると、頭の上で括る。
 抵抗の出来ない小さく華奢な身体は、すぐに英吏の下に組み伏せられた。
「何が嫌……この場所ですることが?それとも、俺が?」
 誤解。
 だけれど、それを解く術が思いつかない。
 英吏はココロが他の誰かのことを思い、自分を拒むのだと思っているようだった。
 完全な誤解だ。
 けれど、本当のことを話せば、大鳥美和の気持ちを勝手に英吏に告げてしまうことになる。もし、英吏がそれを知ったら笑い飛ばすかもしれない。自分には関係のないことだ、と。
 だけど、でも……。
「っ……駄目っ……おねが…い」
 か弱い声でしか抵抗を示さないココロに、英吏はますます不審を募らせているようだ。
 ドアの向こうにまだ美和がいるかもしれないと言う状況で、ココロは大きな声も物音も立てるわけにはいかなかった。
 もし、本当に傍にいたら。
 ココロが英吏とナニかをしている音を聞きつけてしまったら。
 もし、それが逆の立場だったとしたら。
 ココロはたぶん壊れてしまうだろう。
 元気で明るい大鳥美和だって……正常でなんていられるわけがない。
「俺が好きじゃない……?」
 好き過ぎて困るのだ。
「誰か好きな人でも……できたのかい」
 英吏以上に好きな人など、できるはずがない。
 毎日毎日好きだと言っても、それを強く信じてくれないのはやはりココロ自身のせいなのだろうか。
 大きな声で世間様に言えない、勇気のない自分が。
 大鳥美和を傷つけたくなどない。けれど、でも、英吏を傷つけたくなんてない。
 英吏を取られたくない。
 英吏が好き。
 たまらなく好き。
「ごめん……なさい」
 自分が感じるほどの不安を、英吏に与えていたのは自分。
 ココロは首筋に顔を埋める英吏に、しゃくりあげながら何度も謝る。
「……ひっく…ごめ……」
 少しだけ乱暴に乱したココロの衣服を手で直しながら、英吏はココロから身体を離した。
 泣きながら謝るだけのココロから全てが伝わったわけでは、もちろんない。
 ただ、自分の恋人をセックス以外で泣かせてしまうことが英吏としても悲しかったのだろう。
「……俺…には相談できないこと、なんだね」
 悲しそうな声で言う英吏に、ココロはますます胸を痛める。
 自分がどれだけ英吏に頼りっぱなしで生きてきたかが分かった瞬間だった。
「ココロが誰よりも純真で穢れていないのを……たまにすごく寂しく感じるよ。俺だけが、俺だけが欲望でココロを支配しているようで」
 違う。
 ココロはそう言い掛けて、やはり言えなかった。
 違う。違うのに。
 本当に汚れているのは自分。
 誰にも本心を打ち明ける勇気すらないのに、英吏を奪われるのは嫌だなんて、なんて傲慢。
 我が侭なくせに道理が通ってなくて、まるでただの人のオモチャを手に入れた子供のよう。
 悪い事だと知っているのに、それを認めない。
「クリスマス……のことはまた後で話そう…」
 英吏はそれだけ呟くと、脱ぎ去った白衣を腕にかけ部屋を出て行った。
「…クリスマス……」
 年に一度…たった一度の幸福な聖なる夜が訪れる日。
 そんな大切な日の相談も出来ないまま、もうクリスマスまで一週間きっている。
 これじゃあ、駄目になってしまう…。
 この数年間で、何度ももちろん危機はあったけれど、いつも英吏と二人どうにかなんとか乗り越えてきた。
 でも、駄目なのだ。
 今回は、ココロが自分で解決しなくてはいけないのだ。
「俺は……」
 どうしたい?
 心の中に問い掛けるが答えはもちろん返ってこない。
 それは、答えが決まっているからだ。

つづく。


小説。 教師。 2


Copyright(c) 2004 tanakaoukokukokuounakata all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送