−1− | −3− | 小説のぺぇじへ。

● 大人の體、子供の芯 --- −2− ●

晴天とは程遠い空が、自分たちの忙しさをあざけ笑っているようだ。
 ガンガンにクーラーの利いたオフィスの中でパソコンを弄る夏妃は、窓の外の空を見てふとそう思った。
 夏ならずっと暑ければいいのに。
 眠くなりそうな空が窓全体から見える。
 少しだけため息をつくと、夏妃はパソコン画面に視線を戻した。
 大きなビルの八階に位置するHAKASEは、夏妃が大学卒業と同時に立ち上げたネットオークションの会社だ。
 ネットオークションと呼ばれる分野が広く世間に出る前に目をつけたのは、さすが夏妃と言うところだろうか。
 安く、そして安全で効率良くをモットーとするHAKASEは今や日本を代表するネットオークションの会社となった。
「博士さん」
 夏妃は、部下の重々しい声に画面から視線を外す。
 一応夏妃がこの会社を立ち上げたのだから、本来なら社長と呼ばせるべきなのであろうが、夏妃はそれを拒否した。
 部下と一線をおかない為、と言う若手社長ならではの発想である。
「何、どうかしたのか」
 優しい夏妃の声は、幾分か若い青年の力を抜かせたようだ。
 クーラーの入ったオフィス内で冷や汗でも掻きそうなほど青白い顔をしている青年は、申し訳なさそうに言う。
「あ、あの……相馬銀行とのやり取りで……ちょっと」
「トラブル?」
「そ、そこまで大きくもないんですけど」
 慌ててそう付け加えるって事は、そうなんだろうけど。
「長谷川、ちょっと」
 夏妃は怯える社員の上司である、長谷川を呼んだ。
 長谷川はこの社を創業した頃からいる仲間の一人で、最も信頼のおける人材だ。
 今では、夏妃が遠出の出張の時などは、この長谷川と、もう一人女子社員の土屋に会社の全てを預けている。
 それでも落ちついて仕事が出来るほどに、夏妃は長谷川を信じていた。
「はい、社長」
 長谷川は、向かっていたパソコンから顔をあげこちらに向かってきた。
 隣に立つ社員と対して年は変わらないのに、しっかりして見えるのは、やはり中身がしっかりしているからなのだろうか。
「何かトラブルを起こしたって、彼が言ってきているんだけど」
「はい、申し訳ありません」
 躊躇なく頭をさげた長谷川に、夏妃は顔をあげさせる。
「……彼自身に俺に報告させにこさせたのは長谷川の指示かな」
「はい、彼ももう随分仕事は出来るようになりましたから」
 確かに、彼だって既に社会人なのだ。
 新入社員から、社員への階段をあがるステップとして、これは良い機会だと思ったのだろう。しかし、銀行とのやり取りは慎重にいかなくてはならない。こんなネットと言う地場があやふやな世界では、よりそう考えられる。
 夏妃も社長として、部下には新米だろうがベテランだろうが、その事はキツク言ってきた。
 そのせいか、今すぐ切腹か辞任を申し出そうな社員の頭をポンっと叩くと、夏妃は立ちあがった。
「わかった。大丈夫だよ、俺が行って見てくる」
「あ、じゃあ僕も」
 慌ててジャケットを取りにかかる社員に、夏妃は声をかける。
「いや、いい。その代わりここを見てて。あ、とそれと詳しい話は聞かせてくれよ」
「は、はい」
 入社一年達していない彼が、銀行に行ってどうこうするのはあまりに難儀だろうと言う夏妃の配慮だった。
 しかし、夏妃だってまだ会社を立ち上げて3年経たないくらいなのだから、その利発さが目に見えてわかるというものだ。
 美麗な若社長に今回のトラブルの説明をし、青年はパソコン画面へと戻る。
 トラブルはなるほど、そんなに対したものではないらしい。
 ただ、今後の融資の状況が危ぶまれるかもしれない、けれど。
「車出しましょうか」
 長谷川の言葉を、夏妃は歩きたいからと言い訳をして断った。
 車では早く着きすぎる。悩む時間も、考える時間も与えてくれないから。
「厄介だな……」
 夏妃はふぅと一息つき、外へと足を踏み出す。
 雨が降りそうで、決して降らないこの天気は、やっぱり自分を嘲笑しているようだ。

 相馬銀行は、東京に本店のある大きな銀行だ。
 四十五都道府県全てに支店を持つという有力さは、今は日本一と呼ばれている。
 厳しいと呼ばれているこの不況化でその精力を衰えさせないのは、有力な新人を開発しているからだと言う。その考えは夏妃も賛成だ。
 新しい社会は次世代の社員達が造る。
 それこそが、不況を乗り切る鍵なのだ。
「失礼します。HAKASEの博士夏妃と申しますが、高木部長はお出でですか」
 アポイントメントはとってると部下に言われたのだから、大丈夫なのだろうが一応確かめるように聞く。
 受けつけ嬢は突然現われた王子様のような容姿の夏妃に、頬を染めながら資料を焦ってみている。
「博士夏妃様ですね、お伺いしております。なのですが、申し訳ありません。高木は只今用事で席を外しております」
 銀行マンと言うのはそういうものだ。
 約束をしても、いつ何時事件が起きるかわからない。
(仕方ないか……)
「じゃあ、出なおしますね。すいませんでした」
「あ、待ってください」
 そそくさと退こうとする夏妃を、その子は引きとめた。
「高木からお待ち頂くようにと言われています。それに、代わりの社員がお話を聞くように言われておりますので……」
(代わりの社員……?)
 普通銀行員は一つの会社を一生受け持つ。それにより信頼が生まれ、深い関係が根付くのだ。
 こんな風に取り次ぎもなく代えるのは珍しい事だ。
「それは、担当を代えると言う事ですか」
「いえ、高木の上司が来ていまして。HAKASEの担当は高木と二人で行っているので」
 夏妃は、思い当たるフシを思いだす。
 高木が担当になった当初、そんな事を言われた気がするのだ。高木の上司ならば、高木に話すより十分な価値がある。
 一度も面識は無いけれど。
「じゃあ、待たせていただきます」
「では、第二応接室へ……ご案内致しましょうか」
「大丈夫ですよ」
 夏妃が微笑んで返事をすれば、受付の子はキャーっと隣の子と歓声をあげていた。
 第二応接室は、取引の際良く使っていた部屋だから、行くのは容易い事だった。
 夏妃は何も考えずにひたすらその場所を目指す。
 しかし、そのドアを開けた瞬間、夏妃は体中が冷たくなるのを感じた。
 それは自社よりも利き過ぎたクーラーのせいでは……ない。
(な、なんで……)
「久しぶり」
 狭い応接室の大きな黒い皮ソファに、嫌味なくらい長い足を組み座っていたのは、見間違えるはずのない人だった。
(草汰……っ)
 身長も顔つきも服装も、その人を纏っているオーラすら違うにせよ、夏妃がわすれるはずのないその人が、夏妃に話しかけてくる。
 その人は間違い無く、あの日あの時決別したはずの橘草汰その人だった。
「座ってくださいよ」
 ドアノブから手を放す事も、退く事も、まして部屋に入る事も出来ず無言で立ち尽くす夏妃に、笑い混じりで草汰は促した。
 その笑いは、あの時の笑いとは……違う。
 夏妃は、動揺を隠せぬままぎこちない動きで足を一歩前に出す。
 歩いているのか、いないのかそれすらわからない。
 ただ、どうにかソファまで辿りつき、草汰の向かいに座った。
 言いようのない時間と空気が、夏妃を取り囲む。
 カラカラに乾いているはずの部屋に、重苦しい空気が流れる。
「久しぶり」
 足を組替えた草汰が、再びその言葉を口にした。
 夏妃が答える事が出来ず俯いていると、テーブルを強く打ちつけるガンッと言う音がした。
 強張った身体は、大きな音に弱い。
 驚いて上を見上げれば、視線の先の草汰の目とぶつかる。
「無視は酷いんじゃないの」
「……っ」
 目が合ってしまったら、会話をしてしまったら、戻れない気がして、夏妃は居た堪れない気持ちを胸に感じる。
「……久しぶり……」
 壊れた時計のように急速に動き始めた心臓は、痛いくらいに夏妃を追いたてる。
「相変らずだな、貴方は」
 相変らずとはいつの自分と比べているのだろう。
 高校時代が鮮やかに思い出され、夏妃は顔を赤くする。
「相変らず……綺麗なんだな」
 草汰が頬に触れてきた手を、夏妃は過敏に振りほどく。
「何して……っ」
 切れ長の瞳を持つ夏妃は、それで信じられないものでも見るかのように草汰を睨みつける。
 夏妃の爪が伸びていたせいで少し傷ついたのか、草汰は右手を擦りながらその口の端を妖しく吊り上げ笑う。
「まさか、俺が怖いとか」
「ふざけるなっ」
 話にならない、と夏妃が立ちあがると、それより早く草汰が立ちあがる。
「取引の話に来たんだろ、夏妃」
 名前を呼び捨てにされ、夏妃は再び草汰を睨みつける。
 しかし、本来の目的はソレなのだ。夏妃は苦虫を噛み潰す思いで再びソファに腰を深く下ろした。
 それを見届けて満足したのか、草汰はニヤリと笑うと本題を持ち出す。
「お宅の常連客が支払いの場面で悪戯したらしいね」
 深刻な問題を揶揄されたように言われ、夏妃は言いようのない屈辱を味わう。
 あの草汰に、自分の後輩で自分に忘れる事の出来ない過去を残したあの草汰にコンな場所でこんな関係で再開するなんて。
「大変だよね……銀行を舐められるとさ。あんたの会社も大変だ」
 草汰は夏妃の了承も得ずに、胸ポケットから煙草を出すとふかした。
 高校生の時にはなかった草汰の行動に、夏妃はしばしば目を奪われる。
 そう言えば、身長も伸びたみたいだ。
 最後に草汰を見たのは、草汰が十七歳の時だったから、当然と言えば当然だろうけれど。
「……ここは禁煙じゃないのか」
 草汰の行動を咎める台詞を見つけ、どうにか呟くように言うと、草汰は笑う。
「そう言えばあんたは煙草やらなかったな」
 わざとらしく煙を吐いてくる草汰に、夏妃は顔をしかめる。
「高校生の時から身長も伸びてないんじゃないか……顔はちょっと変わったか」
「何が言いたい」
 さっきから突っかかる言い方しか言わない草汰に、夏妃もすっかり取引先だという事を忘れている。
「相変らず男を誘っているんだろう……その顔と體で」
 草汰は夏妃のソファに、夏妃を組み敷くように座る。
 夏妃は慌てて立ちあがろうとしたが、再びあの手に抑えこまれる。
「ぁ……っ」
 大人の顔になった草汰の顔と真正面で向かい合う形になり、夏妃は小さく悲鳴を上げる。
 草汰の手の中には今だ煙草が火をつけて燃えている。
「俺と取引しよう」
「と……取引…だと」
 この状況で、何の話だと言わんばかりに、夏妃は精一杯虚勢を張る。
 ただ、それは大きな犬に果敢に吠える小さな犬のようではあったけれど。
「そう。知らない仲じゃないんだし、俺だってあんたの会社が崩れていく様をわざわざ見ていたくないし」
 知らない仲じゃないと言う言葉に、妙なニュアンスを感じ、夏妃は顔を背けようとするが、草汰の手はそれを許さない。
 それでもなお夏妃は顔を揺さぶると、顎を強く掴まれ、燃えるような草汰の瞳とぶつかる。
 両親もその両親も、祖父も混じりけのない日本人だと言っていた草汰の瞳は黒く、黒曜石のように輝き、奥深くに夏妃の顔を映している。
「取引を続けたいなら態度で示せよ……センパイ」
 昔懐かしいその名称で呼ばれて、夏妃の思考は高校時代へと遡る。
「た……いど……?」
 避ける事も、逃げる事も出来ない状況で、夏妃は自分を組み敷く男に、か細い声で尋ねる。
 金を出せとでも言うのだろうか。
 融資を受けに来ている会社にそんな余裕が無い事くらい、銀行員なのだから知っているだろうに。
 じゃあ、何だというのだろう。
 瞳を大きく見開いて、草汰の顔を覗き込めば草汰は苦い顔をして夏妃のシャツを握り締める。
 サマーシャツだから、少し薄手の生地で出来ているが、素材としては悪くない。
 値段はクオリティに比例するものだ。しかし、そんな高級ワイシャツのボタンが弾ける勢いで、草汰は夏妃を引っ張り浮かせた。
「貴方はいつもそうだ……全部知ってる癖に無垢な振りをして……」
 痛いくらいの衝動に、夏妃が顔をゆがめた瞬間、その開いたワイシャツの胸元に草汰は顔を埋める。
「そ……草汰っ……」
 視界が歪むような、揺れるような、それくらいのインパクトが沸き起こる。
 草汰が自分の胸に唇を這わせている。
 その状況が、夏妃には不可解でならなかった。
 あの日あの時、草汰を手厳しく拒絶して、あの日を境に消えた自分を、草汰がどう思っているかなんて、想像もつかなかったのだ。
「やっ……やめっ……」
 チクリと言う刺激と、舌が這うような美艶な感覚に自分が何をされているのかをやっと理解し、夏妃は体中の力を振り絞り、草汰の身体を頭で押し返す。
 重たい草汰の身体を、首に痛みを感じながら突き返せば、おもったよりも簡単に身体は離れた。
「止めろっ」
 走ったわけでも、バスケットをしたわけでもないのに、息があがり、額から汗が溢れる。
 ソファから転がるように落ち、土足であがる場所だと言うのに、何も考えず座り込む。
 乱れたワイシャツを掴み、合わせようと努力するけれど、ボタンが弾けていて繋がるわけがない。
 それでも、ガタガタ震える夏妃の手はその行動を繰り返す。
「理解出来た? 先輩」
 この状況で、何を理解すると言うのだろう。
 こみ上げてくる怒りに夏妃は言葉すら叫ぶことが出来ない。
「融資を続けたければ、身体で俺に奉仕するって事だよ」
 草汰の口から告げられた、信じられない言葉に、夏妃は大きな瞳を更に広げ目の前の男を見る。
 そんな夏妃の態度が予想通りで楽しかったのか、草汰はクスッと笑い、夏妃に再び近づく。
 恐怖……を確かに感じている夏妃の身体に草汰が少し触れただけで、ソレは小動物のように過敏に跳ねた。
「あんた相変わらず綺麗だし、散々男食って感度もいいだろうしな。女がいないわけじゃないが……女はいろいろ面倒だから」
「何っ……」
 信じられない言い草だった。
 性に無頓着と言うわけではないが、それほど強い願望の無い夏妃が、キスを許したどころか付き合ったのは、草汰が最初で最後だ。
 なのに、何故か口汚く自分の事を馬鹿にされている。
 それどころか、草汰が付き合っているだろう女の子の事もこんな風に言うなんて。
 学生の頃は、男女共に受けがよく、普通の人よりはもてていた印象を受けたあの草汰が、他人に対してこんな態度を取るなんて。
 夏妃はあまりの草汰の変わりように、怒りすら胸に湧く。
 なかなか立ち上がれない夏妃の腕を取り、草汰は夏妃の身体を引っ張り起こす。
 その間も、草汰の事を睨んで視線をずらさない夏妃に、苦笑を密かに溢した。
「融資は必要なんだろう」
 銀行からの融資だけで成り立っている会社なのではない。利益も安定してきているし、顧客も他のネットオークション会社よりは多い。
 しかし、だ。
 銀行との繋がりが絶たれるのは、どんな会社において考えてみても良い事ではない。
 その上もし草汰の手がまわり、ブラックリスト等に登録されどこの銀行、企業とも取引が出来なくなるという事も考えられなくは無い。
 それは、会社の終わりを意味する。
 口の中に広がる異様な気持ち悪さを飲み込み、夏妃は声を殺す。
「くっ……」
 悔しかった、情けなかった。
 そして、何よりこんな取引を持ち出す草汰が許せなかった。
 綺麗な顔を歪ませ、葛藤を繰り返す夏妃に、草汰は答えを急かす。
「どうするの、先輩」
 不条理な事に心を痛めるが、それでも……それでも、夏妃の出す答えが一つしかない事を、二人とも知っていた。
「……さい」
 下に俯き、震える身体からどうにかその言葉を搾り出す。
「は?聞こえないな、なんて言ったんだ」
 草汰は笑みを隠そうとはせず、夏妃に再び問う。
 屈辱的な台詞を二度言わせようとしているのだ。
 夏妃は、今度は顔をあげ、最低な男の顔を最低だと言う目で睨み、言う。
「助けて……下さい」
 会社の為だ……。
 時代劇の町娘のような自分に、夏妃は身体を震わす。
「契約成立」
 草汰は嬉しそうに、夏妃の肩を叩いた。
 夏妃反射神経が動いたかのように、瞬時にその手を払う。
「触るな」
「まぁ……気の強い方があんたらしいけどな」
 草汰がそう言いながら、二本目の煙草に手をつけようとすると、小会議室のドアがコンコンとなった。
 夏妃は怯えたように、草汰との間をとった。
「博士さん、お待たせしてすみません」
 入ってきたのは、もともと夏妃の担当だった高木と言う男だった。
 夏妃は草汰と二人っきりだった空間からやっと開放された安堵からか、高木に笑みをこぼす。
「全然、構わないですよ。お忙しいのは、社会人として名誉な事でしょう」
 口滑らかに零れる夏妃の言葉に、草汰は冷たい視線を飛ばす。
 そんな凍てつくような視線に先に気づいたのは、夏妃ではなく高木だった。
「ああ、すみません夏妃さん。もう紹介はすんだでしょうが、改めて紹介しますね。アメリカ支社から戻りました、もう一人の貴社担当の、橘です」
 せっかく高木に紹介してもらったというのに、そちらの方は向けない。
 夏妃はぎこちなく身体を草汰の方に向けると、一礼し、手を差し出した。
「……ハジメマシテ。HAKASEの社長の……博士です」
「始めまして。高木の上司の橘です」
 二人の間に異様な空気が流れているなんて、高木には知る由も無い。
「じゃあ、私はこれで。次の仕事がありますので。高木さんよろしくお願いします」
 草汰は夏妃から手を離すと、塩がでそうなほどの汗をハンカチで拭いている高木にそう言うと、ドアの方へと向かった。
「はい、わかりました」
「……博士さん。例の件はメールでお知らせしますので」
「っ……!」
 社交辞令だと言う風に敬語を使われ、夏妃は今すぐドアを締め出してやりたくなる。
 しかし、ここは銀行の小会議室で、高木もいる普通の場所なのだ。
 夏妃と草汰の昔の関係など知らない、場所なのだ。
 わかっているのは……二人だけ。
「はぁ、すみませんねぇ博士さん。息苦しかったんじゃないですか」
「えっ……?」
 見透かされたような高木の言葉に、夏妃は思わず驚きの声を漏らす。
 まさか、顔色を読まれたのだろうか。
「いえね、私もどうにも苦手でして……あの人。私より十以上も若いんですよ。博士さんよりも確か少しお若いはずだから、やっぱり嫌な気がしたんじゃないかと思いましてね」
 人のよさそうな笑顔を飛ばす高木に、夏妃はいいえ、とだけ答えた。
「若くても仕事が出切る人が残る世の中ですからね、我々もがんばらなくては」
 独り言のように呟いた高木の言葉に、夏妃は適当に相槌を打つ。
 あとは何を話していたのか、あんまり覚えていない。
 これから起こるであろう事を考えていると、他の事は頭に入らなかったのだ。
 銀行を出ると外の暑さで、少しだけ覚醒する。
 本当に、数時間の出来事なのだろうか。
 たった数時間のうちに草汰と最悪な再開をし、そして契約まで結ばされた。
『融資を続けたければ、身体で俺に奉仕するって事だよ』
 あっさり言ってのけた草汰の顔が頭に浮かぶ。
 冷たいほどに整っていて、端正な顔立ち。それがさらに凍てつくように笑い、夏妃に言ってのけたのだ。
(くそ……っ)
 夏妃には不釣合いのような言葉で、草汰を詰る。
 けれど、それ以外にどうすればいいのか想像もつかず、夏妃は暗い面持ちで会社に戻った。
「博士さん、お帰りなさい」
「お帰りなさい」
 オフィスに入ると、社員達が一斉に明るい顔で挨拶をしてきた。
 きっと銀行の方から、これからもよろしくお願いします、とでも言う電話がかかってきたのだろう。先ほど自殺しそうなほど落ち込んでいた社員も、今は清清しいほどの笑顔でパソコン画面と向き直っている。
「ただいま」
 夏妃は小さく言うと、愛想笑いも忘れて区切られた社長用のデスクに向かう。
 普段は社員同様、社長も仕事をしているのだと言うのをわからせ、一緒に働いているメンバーなのだと認識させるために、デスクを皆と同じ位置に置き作業している。
 けれど、社長じゃなきゃ出来ない仕事や、他の社員に見せられない資料を読み取るときは、さすがにこう言う風に区切られていた方が都合いいのだ。
「はぁ……」
 夏妃は自ら入れたインスタントコーヒーに一口も付けず、そのままデスクに上半身だけでうつ伏せる。
 目の前が真っ黒になったり、真っ白になったりチカチカする。
 よく歩いてちゃんと会社まで帰ってこれたものだと、自分に感心する。
(キス……)
 舌が恐ろしいくらいに動き回って、夏妃に文句の一つも言わせなかった。
 煙草の匂いと、草汰の大人びた体臭が身体から取れていない気がする。
 何度も……何度も外の空気で洗い流してきたのに……。
 破られたワイシャツも、銀行を出てすぐ目にとまったブティックで、急いで買い求め、前以上にキリリときめている。
 それなのに、夏妃にはその下に隠された赤い痕が誰かに見られているようで落ち着かない。
 草汰に無理やりつけさせられた……紅い接吻の痕が……そこにはある。
 夏妃が居た堪れない気持ちになり、デスクの下で膝を握り締めた瞬間、パソコン画面のやけに明るいキャラクターが歌いだす。
 ポストペットと呼ばれるそのキャラクターは、メールが届いたときにそうやって画面で教えてくれるのだ。例え、他の書類を作成していたり、ネットで調べごとをしていても教えてくれるので、便利なのだ。
 ポストペットは、誰から来ました、と言う場所に、見慣れぬメールアドレスを書いている。
 夏妃はそのメールアドレスに見覚えはなかった。
 けれど、今日この時間メールをくれるようなヤツは一人しか思い浮かばない。
(草汰……っ)
震える手でマウスを握り、メールボックスの受信の欄をクリックする。
 草汰……じゃ、なければいい。
 そう思いつつも、そうだと頭で確信が持てる。
――博士夏妃様――
 今夜八時、貴社のほうに迎えに参ります。
「くっ……」
 用件だけを伝えたメールは、銀行のパソコンから打ったのだろう。虫も殺さないような顔をして、淡々と……。
 今の時刻は、午後四時半。
 しばらくすると大抵の社員は帰っていき、残るのは仕事が片付かなかった人と、残って仕事を続ける少数。
 自分は……草汰の為に残っていなくてはならないのだ。その事が、夏妃をもっと苦しめた。

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