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● 大人の體、子供の芯 --- −3− ●

好きだと告白されたのは、六月の大会終了後の、清清しいような天気の下だった。
 部活を引退した三年生だからと言って、急に気持ちを部活から受験に向ける事が出来なくて、友達の山中たちと後輩達の部活を見学に来ていた時だった。
 結局部活を最後まで見てしまい、駄目な自分にほとほと呆れていると、草汰は近寄ってきた。
 部活を終えたばかりの草汰は、流しでザッと頭を洗ったのか、黒い髪を水で滴らせている。
「先輩、ちょっと良いですか」
「ん?」
 草汰は夏妃が在部中から、よく懐いてきた生徒だった。
 部長と言う立場上どの部員にも同じように接するよう心がけてはいたけれど、やっぱり少しは可愛がってしまった分もあるかもしれない。
 それくらい、草汰は素直に夏妃の傍に居た。
「先輩……好きです」
 唐突なその告白に、夏妃は首をかしげる。
「俺もだよ」
 けれど、今度は草汰が肩を竦めた。
 違うよ、と。
 俺はふと山中を見ると、山中は後輩たちと混ざってシュート練習をしている。
「……付き合っている人は…今は居ないんでしょう」
 付き合っている人。
 そう言われて、俺は一つの道を導き出す。
「それって……」
 次第に顔が赤くなっていってしまう。
 そんな夏妃の変化に、草汰のクールな顔まで赤くなった。
「そういう事です」
 告白された事なんて初めてだったから、夏妃はどうしようもなくて顔を赤くするばかりだった。
「付き合ってください」
 綺麗で、美しい、聡明だと称される夏妃は、いつも他人には一線を引かれているようだった。友達でも、クラスメイトでも。
 そんな周りとは少し違ったのが草汰だった。
 何でも話してくれて、自分の話も聞いてくれた。週末に試合観戦をしたり、買い物にも行っていた。
 後輩としては大好きだった。けれど、愛しているかはわからない。
 でも、もしここで自分が告白を断ってしまったら、きっと前の草汰と自分の関係ではなくなる……。
 目の前の、顔を真っ赤にしてずっと下を向いている草汰に、夏妃は声をかけた。
「いいよ」
 夏妃の言葉が信じられないといわんばかりに、草汰は目を凝らす。
 そして、くしゃっと丸まったごみのように笑い、あの夏妃が好きな笑顔になった。

 「あ、あの……夏妃さん」
 夏妃の会社では半分近くの社員が女性だ。その女性社員の中でもチーフを任されている人が、夏妃に遠慮がちに声をかける。
「あ……どうかした?」
 昔のことを思い出していて、オフィスと夏妃のその部屋を繋ぐ電話がなったのにも気づかなかったらしい。わざわざこうしてこっちにまで来てくれたっていう事は、それ相応の事があったのだ。
「いいえ、私達ではなく……夏妃さんにお客様です」
「客……」
 今日は誰のアポイントメントも受けた覚えはないんだ、そう言おうとして夏妃は口をつぐむ。
(草汰だ……)
 慌てて時計を見れば、既に八時を回っている。
 会社を見渡すと沢山いた社員達も家路に帰ったのか、今居るのは二、三人で、その数名も帰り支度を始めている。
「どうしましょうか」
 この女性社員も、今日夏妃が誰ともアポを取っていない事をしっているらしい。
「……君はこの後帰るのかい」
「あ、はい。そのつもりでしたが、接待ですか?」
 嫌な顔一つせずそういう彼女に、夏妃は慌てて否定した。
「いや、気をつけて帰ってくれ。俺は……客と会っていくから」
「はい、じゃあお先失礼します」
 そう言って閉じられる扉を夏妃は見つめ、気が重くなるのを感じた。
 何故今更、あんな昔の事を思い出したのだろう。
 あんな昔の事。そう自分で思えるのが不思議だった。
 そう、あれは昔なのに。
「遅い」
 社長室から出て客人の待つという応接室の扉を開いたとたん、その中のやや大きめの外国製の毛皮のソファに足を組んで座っていた男が、こちらを見ずに非難を飛ばす。
 もし入ってきた相手が夏妃じゃなかったら、どうするつもりだったのか……。
「……俺にだって仕事はあるんだ」
 夏妃はそれだけ言うと、草汰の向かいの席に座ろうとして止められる。
「座るな」
 草汰の声に、夏妃は大げさなほどその華奢な身体を震わせた。
 怯えているわけではない。ただ、ただ声が少しだけ……昔と違うから。
「俺の横に座るんだ」
「っ」
 草汰は横長のソファの自分の左隣を大きなスペースで空けて座っていた。
 夏妃は一瞬躊躇したが、それに従い指定された場所に座る。
 だいたいお客様をこちらの席に通すから、夏妃がこの席でこの部屋を見渡すことはめったにない。
 不思議な光景に、奇妙な感覚を覚える。
「……会社まで来て何の用だ」
 声が震えないように、夏妃は精一杯虚勢を張り、ゆっくりそう告げる。
 その言葉に草汰はは答えず、夏妃の会社の応接室を眺めていた。
 その時間が嫌だった。
 昔もそうだった。一緒に勉強をしたり、一緒に帰ったりする事を草汰が好んでいたから、良くしていたけれど、その時ふいに会話が無くなってしまう時が苦手だった。
 何を考えているのか、何を見ているのか、まったくわからないから。
 どうしたらいいのか、わからなくなってしまうから。
「……好きだ」
「!?」
 草汰の呟いた言葉に、夏妃は思わず草汰を見る。
「好きだ、愛している、大好きだ、この世で一番愛してる……昔あんたに何十回、何百回って言った言葉だ」
「……っ」
 草汰は立ち上がると、夏妃の座っている真ん前に立ち、ソファの背に両手をつき、夏妃をその逞しい腕の中に収める。
「あんたが腹の中で、ガキだなって笑ってるともしらずにさ」
 自身が縦に引き裂かれるような衝撃を受けた。
 俺は、俺は……違うのに。そうじゃないのに。
 でも……。
「草汰っ」
 草汰は夏妃のネクタイを緩ませ、シュルリと言う音を出してワイシャツの襟から引き抜く。
 その草汰の顔があまりに恐くて、夏妃は怯え身体をいっそう震わせた。
「誘ってるのか」
「な、何言って……っ……ん」
 一瞬、高飛車に笑った男に唇を奪われる。
 懐かしい感触が唇を支配する。熱く、重たいような唇が夏妃の唇に押し当てられる。
 押付けている、と言う表現の方が正しいだろうと思えるほど荒々しいキス。
(キス……)
 目を閉じることを忘れ、男の近づいた顔を呆然と見てしまう。
 あの時と似ているようで、全然違う顔。
 あの時と似ているようで、全然違う……キス。
「離せっ」
 拘束されていない顔は、左右に振るとすぐに離れた。
 心臓がバクバクして、動機が激しくなった夏妃を見て、草汰は再び笑う。
「もう……子供じゃないんだぜ。俺だって」
「止めろっ」
 夏妃は草汰の胸を押しやり、ソファから勢い良く立ち上がると、応接室から飛び出した。
 オフィスの方はもう社員一人いなくて、普段の騒々しい仕事場から閑静な場所となっている。
 それでも助けを求めるように辺りを見回す夏妃に、後ろか重圧な男の声が降り注ぐ。
「逃げるつもりかよ」
「っ」
 振り向けば、長身の草汰がそこにはいた。
「今度は……逃がさないけどな」
 そう恐ろしいくらい低い声で告げると、夏妃の身体を書類の散らばったデスクに押し倒す。
「……痛っ……」
 背中を強くデスクに打ち付けられて、夏妃は顔を歪める。
 そんな夏妃を労わろうともせず、草汰は夏妃のベルトに手をかける。
「何……してっ……」
 思わず叫んだ声は、裏返って高くなった。
 手馴れた手つきではずされて行くベルトの音が、静かなオフィスの中を木霊する。
 ストイックな部屋部屋に不釣合いな音が、いやらしく夏妃の耳に届く。
「こんな格好で……お勉強や、お飯事でもすると思う……?」
 明らかに揶揄をこめた男の言葉に、夏妃は顔を真っ赤にする。
 人間が二人いて、服を脱いでする事は一つしかない……。そう、身体も心も大人へと成長したなら誰もがわかることだ。
「嫌だっ……」
 夏妃は脱がされかけたスーツのパンツの上を引っ張りあげ、草汰の下から逃げる。
 逃げると言っても、小さいと言う部類に入るだろうその閑静なオフィスの中だけなのだけれど。
 唯一区切られた一室の社長室に逃げ入ると、鍵を閉めることも忘れ、大きなデスクの下に隠れる。
 その姿は、社員や親や友達がみたら、本当に博士夏妃なのかと問うだろうと思えるほど、幼い。
「ふっ……」
 足音が刻々と近づいてくるのを感じて、夏妃は口を押さえる。
 身に付けているスーツを見ても高級品を纏っていることがわかる草汰は、靴をも高いものを履いているのだろう。
 甲高い靴音が社長室の中を歩く。
「鬼ごっこでもしてるつもりか」
 怒ってはいない。でも、笑ってもいないそんな声が、社長室を通り抜ける。
 本当に彼は草汰なのだろうか。
 そんな疑問さえ夏妃の頭の中をよぎる。
 キー……と言う音がして、社長室から直接行けるようになっている休憩室への扉が開けられた事がわかる。
「……んっ」
 思わず漏れた声は、涙を溢さずにいれた最後の手段だ。
 草汰はその微々たる音を聞き漏らすことはせず、静かに休憩室の扉を閉めた。
「子供は鬼には勝てないんだぜ」
「!」
 まだ遠くに居たと思っていた草汰は、夏妃の隠れていたデスクを覗き込んでそう言った。
 ゲームセット、そうも言っていたような気がする。
 ただ、もう夏妃に草汰の言葉をちゃんと理解するだけの、理性は残っていなかった。
「観念しろよ」
「くっ……や……」
 下から引っ張り出され、大き目のデスクにうつ伏せに押し倒される。
 草汰の怒っているんだろう顔も、今の自分の体勢も、状況も何も見えないから余計に恐くなる。
「嫌だ、じゃないだろ……あんたは……いつも……」
 草汰は夏妃の手を後ろで自らのネクタイで縛る。
「痛いっ……」
「痛くしてるんだよ」
 草汰の声と共に、脱がしやすくなっていた下の服が脱がされる。
「ぁあっ……」
 下着諸共剥ぎ取られ、上半身だけ服を着ている状態で足を広げさせられる。
「いやだ……止めろっ…止めろ……草汰っ」
 恥ずかしげもなく叫べば、草汰はその双丘に手を置いた。
 冷たい草汰の手が夏妃の誰も触れていない場所に手を置いたのだ。
「ひゃっ……な、何っ……」
「初心なふりするなよ」
 夏妃が予想以上に暴れ、怯えるのが不満だと言わんばかりに、草汰はピシャリと夏妃を黙らせる。
 恥ずかしいとか、気持ち悪いとか、そう言う感覚は無かった。
 恐くて、恐くて、恐くて、夏妃は十代の自分にトリップする。
「嫌っ……恐……いっ」
 ただ撫でているだけの行為で、夏妃は瞳から大粒の涙を溢した。
 デスクにうつ伏せているからと言って、顔までわからないほどではない。
 夏妃の演技に見えないその態度に、草汰は思わず狼狽する。
「夏妃……?」
「ひっく……ふぅ……も……」
 押し倒されていては、草汰の顔を見ることも出来ない。
 草汰の顔を見ることも出来なければ、助けを請う事も出来ない。
 夏妃はデスクに向かって、必死に訴えるだけだった。
「草汰ぁ……っ」
「!」
 大の男が、まるで子供のように泣きながら許しを懇願している。
 その男は、昔自分を手酷く振った男でもあるのだ。草汰は眉間の間に皺を寄せ、夏妃に覆い被さる。
「やぁっ……」
「……なんでだよ……まだ何もしてないだろ……酷いことは何も……」
 草汰は努めて優しい声で夏妃に話し掛けた。
 夢か現かわからないその昔のような草汰の声に、夏妃は苦しい体勢で首だけ振り返る。
「夏妃……さん」
 何故だかわからないけれど、自分をここまで恐怖に突き落とした男の顔が少しだけ苦しそうに見える。悲しそうにも見える。
「んっ……ふっ……」
 無理やりな姿勢で唇を奪われる。
 震えていた夏妃の身体が少しだけ落ち着いたのか、その可愛そうな小動物のような震えが止まる。
「んんーっ」
 舌を絡めれば、慣れない動きの夏妃の舌が、戸惑いながら口内を逃げる。
 草汰はまるで溶けてしまいそうなほどの熱で、それを掬い取る。
「ぁ……はっ……」
 うつろな瞳を灰色に光らせて、口の端から唾液を垂らしている夏妃の卑猥な格好は、草汰は刺激する。
「あんたはどうして……いつも……」
 草汰は夏妃の露になっている下半身へと手を伸ばす。恐怖で萎縮しているそこに少し触れれば、夏妃の顔色が急速に変わる。
「っ……!」
 まるで初めてとでも言うようなその反応に、草汰は苦笑する。
「そうやって男誘ってきたんだろ」
「っ……ひゃっ……」
 男の一番大事な部分を他の男の大きな手で握られる。
 根元辺りに小指を巻きつけ、順に薬指、中指、人差し指と巻き疲れていく。
 親指は先端を引っかいた。
「んぁあ……っ」
 頭から足の先まで静電気が通るような感覚が、夏妃の体中を走る。
 大きく身体を揺らしたせいで、頭をデスクに大きく打ち付けた。爪先立ちでもするかのように伸びきった足先が痛い。
「っ…んっ……んーっ」
 幼い反応をしてくる夏妃に、草汰は再び強く扱きあげる。
「どうしたんだよ……もっと乱れろよ……ぐちゃぐちゃに」
「あっ……ああーっ」
 草汰の手で少し扱かれただけで、夏妃はその草汰の手の中に白濁とした液を放っていた。
「はぁ……はぁ……っ」
 自らの腕の中で、激しい呼吸に咳をも堪えている夏妃を、草汰はただ見つめていた。
「……あんた……もしかして」
 草汰は言葉を続けようとして、止めた。
 夏妃は、拭いきれない涙を隠して立ち上がろうとするが、身体に力が入らない。
 そんな夏妃に、草汰は自らのスーツのジャケットを投げつけた。
(……?)
「……何……」
 夏妃を拘束していた自らのネクタイを解くと、それはズボンのポケットに押し込んだ。
「また来る」
 草汰はズボンのポケットから煙草を取り出すと、火を点けながら社長室を後にした。
 あの甲高い靴音は、数分の後オフィスの中からもしなくなり、再び会社には静かな空間が流れた。
「……何なんだよ……」
 夏妃は誰もいなくなった社長室で静かに怒りをぶつける。
(何がしたいんだよ……)
 これがセックスでは無いことくらいわかる。男同士のセックスならば前戯に値するくらいの行為だろう。
 じゃあ、何故アイツは止めたんだろう。昔の夏妃を責めているのだったら、もっと深い行為をして夏妃を辱める事くらいするはずだ。
 それに、力でも……もう草汰の方が強いだろうから、夏妃に適わないからといって止めたという訳じゃないだろう。
(恐かった……)
 夏妃は今になって自分の身体が震えてくるのを感じた。
(恐い……恐かった……)
 両手の平が涙で歪んでいる。それ以上に、生理的な恐怖で震えていた。
 こんなに恐いと感じたのは、いつ以来か。
 あの時だとはっきり思える。
 草汰に初めてキスされた、あの日、あの部屋での出来事以来だ。
 草汰が、まるで獣みたいに見えた。
「ふっ……」
 自らの身体を抱きしめるようにして、再び夏妃は涙を流した。
 何年経っても、十年経っても……こうなのだろうか。
 夏妃は静かなオフィスの中で、静かに涙を溢した。

 それから草汰はお昼ぐらいに毎日必ず夏妃のパソコンにメールをするようになった。
 そして、その夜にはどこかで必ず夏妃の身体に触れた。
 ホテルや個室化された高級そうレストランと言う事もあったけれど、多いのは夏妃のオフィスだった。
 夏妃が最も嫌がるその場所で、夏妃を辱めることが、楽しいとでも言うのだろうか。
 普段社員達と笑いながら話、忙しく仕事をするこの場所で、夏妃は夜性への快楽へと落ちる。
「ぁっ……ふぅっ……」
「気持ちが良いのなら声を出せよ」
 今日も夏妃のオフィスの中だ。
 しかも、オフィスの入り口のドアに内側から顔を押付けられて、立ったままの状態で下肢を撫でまわされる。
 この状態で声を出してしまったら、防音になっているこの部屋だってさすがに全ての声を抑えてはくれないだろう。
 夏妃は必死に自分の舌唇を噛み締め、自らのモノとは思えない卑猥な声を堪える。
 節電を心がけているおかげで、六時以降はオフィス内のクーラーは切ってある。そのせいで夏妃の額からも、それを襲っている男の身体からも艶かしい雫が零れ落ちていた。
「気持ち……良く…な……」
「嘘付くなよ。あんたの顔……我慢し切れなくて最高にエロい」
 夏妃のストイックな身体が火照り、自らも腰を動かし始めるほどに焦らす。
 そんな、触れるだけの幼稚な性交渉を繰り返していた。
「ああっ……」
 日ごと夏妃の身体に触れる草汰の指、手は、夏妃の性感帯を容易く見つけ出す。
 今までストイックな印象を受け、そして印象以上にストイックだった夏妃にとって、それは新しい性への目覚めのようでもあった。
 人より遅すぎたそれに今更貪欲になるのも無理は無い。
 草汰が少し焦らしたりすると、頭の中が真っ白になり、草汰の前だとかそう言う事も忘れ自分で弄りたくなる思いに襲われる。
 ただ、今は……最後の理性がそれをどうにか止めてくれるけれど。
(このまま……こんな事を続けてたら……)
 熱が冷め、現実に引き戻らされるといつも感じる虚無感。
 夏妃は、だるい身体をオフィスの壁にもたらせ、落ち着かない気持ちを冷まさせていた。
「何……してんだよ……」
 夏妃が言葉を喋るのも億劫だと思えるくらい疲労しているにも関わらず、草汰は手早く乱れた服装を直すと、いつもの銀行マンの格好で夏妃のオフィス内を歩き回っていた。
 一つのデスクの前で立ち止まり、パソコンを起動させているのを見て、夏妃は思わず声を掛けてしまったのだ。
 草汰はこちらの言葉を少し無視し、その後、ふっ……、と笑った。
「……あんたでも俺の行動が少しは気になるか」
 その言葉は昔の夏妃をあからさまに責めていた。
 夏妃は口中に苦い味を感じながら、憎まれ口を叩く。
「俺の会社の物に……触れて欲しくないだけだ」
「あんたも社長なんだよな……昔からなんでも出来たから、経営も上手ですってか」
 夏妃の注意を聞き流し、草汰は未だパソコンを弄っている。
 何かのファイルを見られてまずいという事はないが、他者に容易く見せるものではない資料だってあるかもしれない。
 そう言うのには大抵パスワード付きで保存するように言ってあるから、夏妃かその社員でなくては開けない寸法になっている。
 けれどそういうのは見ていないのか、淡々とした表情で画面を見つづけている。
(何がしたいんだ……あいつは)
 夏妃はやっと動くようになってきた足で立ち上がり、身支度を整える。
 よれよれに皺寄ったスーツが、よけいにいやらしく思えて、夏妃は顔を赤くする。
「……この会社の取引銀行は相馬銀行だけか」
 いきなりかけられた言葉に、夏妃は咄嗟の事に少し考えてしまって、答えが遅くなる。
「いや……」
「どこだ」
 草汰のこの疑問は明らかに会社の何かを探っているように思える。
 けれど、草汰は相馬銀行の偉い人と言う肩書きのせいで、夏妃に強気な態度が取れるのだ。
 夏妃は考えられる全ての悪い事を考えてみたけれど、これ以上の悪い事なんて想像つかなくて、ため息交じりで答える。
「……名川銀行……それに、各地方県銀行、後大倉銀行」
 ぶっきらぼうに答えた夏妃のソレは責めず、草汰は再びパソコンと向かい合い、何か考え込んでいる。
 その横顔は、どこかで見覚えが有る。
(ああ……そうだ)
 部活中の顔と似ている。厳しいから辛い顔にもなって、だけど、やっぱり大好きなバスケットボールだから、どこか嬉々としたような。
 部活中に見た草汰は、他校の娘すら騒がせるほど男らしく、そして少年の可愛らしさも持っていて、好きだったのだと思う。
(草汰……)
 謝りたい気持ちが胸の奥に込み上げてくる。
 けれど、今そんな事をしても、草汰は鼻で笑って、演技でしょう、なんて言うんだろう。
(どうしたらいいって言うんだよ……)
 消せない過去と、今の状況とで、未来を思い描けない。
 そう言えば、あの頃もそうだった。
 今が精一杯で、未来なんて考えても見なかった。
 まさかあれで……あの日俺は自分自身、あれで終わってしまうとは思ってもみなかった。
「大倉……ねぇ」
 今現在の草汰の声に、夏妃の意識も今へと引きずり戻される。
「……また来る」
 草汰はそれから何も言わず、夏妃のオフィスを後にした。
 そこに残ったのは静寂と、生暖かいような匂いだけだ。

 その日、夏妃が会社に出社したのは、会社ぐるみでHAKASEを利用してくれている真鍋物産との打ち合わせを終えた後だったから、お昼過ぎだった。
 昼食も取らずに、社に戻ったのには訳があった。
 またトラブルが発生したのだと、社員の中でも有望株とされている長谷川から連絡が来たのだ。長谷川は、技術面においても、指導面においても一押しの実力持ちで、夏妃の留守には長谷川ともう一人女子社員に、会社の統括をまかせていたのだ。
「今戻ったよ」
 夏妃がそう言いながらオフィスに足を踏み入れると、ほとんどの社員が助けを求めるかの表情で振り返った。
「夏妃さん……すみません」
「いや、打ち合わせはもう終わったから……それで」
「はい、本日相馬銀行に振り込まれるはずの代金が全て支払われてないんです」
「全員?」
「はい」
 夏妃の会社がまだまだオフィス一つ分しかもたない小さな会社だからと言って、会員全員となると、夏妃の頭には納まりきれない。
 カードが使えない十八歳未満も行える代金引換の制度も取り入れているので、小さい子供から、高校生、主婦、サラリーマンや老人達など幅広い会員がいる。
 思ったより子供が多かったのは、やはりネット社会と言う言葉が今の世代を飾っていることが良くわかる。
 しかし、今日振り込まれるはずの全てのモノが支払われていないとなると……これは、ただごとではない。
 先月、相馬銀行に赴いた日からこういう事はたびたび起こっていた。
 始めは一件、それが数件となり、今じゃほとんどがそうなっている。
「クライアントに電話は?」
「今、女子社員総出でやってるんですが……」
 長谷川は言葉を濁す。
「繋がらないのか」
「いえ、応答しないんです」
 一体どういう事だ。
「支払われないのは、相馬銀行にだけなのか」
「……今わかってる状態では、そうですね」
 夏妃は嫌な空気を感じ取り、表情を歪める。
 相馬銀行との繋がりだって奇妙なモノだというのに、草汰と出会ってからそう言う事が起き始めるなんて……どこかおかしくないだろうか。
(まさか……草汰が)
 握った拳の中に汗がにじみ出る感覚がわかる。
 これが本当の復讐だとでも言うのだろうか。
 夏妃を性への快楽へと目覚めさせ、起き上がることも出来なくなった隙を見計らってパソコン操作をして……。
 いや、でもそんな簡単に出来るものだろうか。
 潔癖症気味の夏妃は、自身や他人が『悪い』と思う事は出来ない性質だった。そして、そう言うことをする人間が、まったく信じられなかった。
(復讐……の為に、俺の会社を潰そうとでも言うのかっ)
 真偽はわからない。
 けれど、疑うべきは彼しか考えられなかった。
「とりあえず土屋達はとにかく電話をかけつづけ、アポをとってくれ。長谷川達は近場だけでもいいから足を運んで聞いてくれ。俺は……相馬銀行に行ってみる」
「はい」
 融資打ち切り……と言う事は考えられる。
 銀行は、金のある輩には親切だが、ない人間には手厳しい場所だ。
 けれど……社員達を抱える社長として、夏妃は逃げるわけにはいかないのだ。
 例え、今一番会いたくない人物に会うのだとしても。
「いらっしゃいませ……あ、博士さん」
 浮かない表情で銀行の自動扉をくぐった夏妃に、明るい声と笑顔を飛ばしてきたのは、いつぞやの受け付け嬢だ。
 最悪の事態を想像してきた夏妃に対して、この態度は如何なものだろう。
 夏妃は思わずその人に苦笑を返した。すると、その女性はキャッと浮ついた声を少しあげ、夏妃に声をかけてきた。
「高木に用事でしたでしょうか」
 数ある相馬の取引会社の中で、夏妃の担当が高木だとよく覚えていたものだと夏妃は感心する。
 本当を言えば、夏妃だからこそこの女性は覚えていたのだけれど。
「え……ええ、まぁ……」
「第二応接室でお待ち下さい。呼んで参ります」
 自分の会社での不祥事に追われているだろう高木を呼び出してもらうのに、こんなに丁寧に応対され、夏妃は居た堪れなくなる。
 わかりました、とだけ返事をし、夏妃は第二応接室へと急いだ。
 久しぶりにその部屋に足を運んだ夏妃は、こんなに小さい部屋だったかと再確認する。
 今まで取引に来ていた時は、ただの仕事場としてしかの印象しかなく、周りなどあまり良く見ていなかった。
 そして、草汰と再開したあの日は……。
 ここが、銀行の応接室だと言う事を忘れた。
 心が学生時代へと遡り、時が止まった。
 あの感覚は……。
「ああ、博士さんお待たせしてすみません」
 高木は人のよさそうな顔の眉を少し下げて、謝りながら部屋に入ってきた。たぶん、夏妃が面会に来ていたのに、すぐに来れなかったことへの謝罪だろう。
 謝りたいのはむしろ夏妃の方だと言うのに。
 急にアポを取って、会いたいと申し出たのもこちらなら、内容は最悪に遠くない。
 とにかく……だ。今回の事の許しを貰えないうちからは話しが出来ない。
 夏妃は、高木の真正面に立ち身体を四五度に曲げた。
「えぇ……?どうしたんですか博士さん」
 高木は惚けているのか、どこまで人が良いのか、夏妃の行動に慌てた様子を見せる。
「今回の件は本当に申し訳ありませんでした」
「は、博士さん」
 夏妃が声に出して、頭まで下げて謝ってなお、高木は首を傾げている。
「一体何があったんですか」
(何があった……って……)
 恐る恐る顔をあげつつ、夏妃はやはり高木が惚けているのだと思った。
 なにせ、銀行と言う場所は始終パソコンを開いていて、こんな大損じがあれば、すぐにでも気付くものだからだ。
 そうでなければ、とっくに世界の銀行は潰れている。
「失礼します」
 異様な空間に突如入りこんできたのは、他でもないあの男。
(草汰っ……)
 思わず声にだして名前を呼びそうになって、夏妃は口を手で覆いかぶせた。
「おや……橘さん……えーと?」
 急に入ってきた上司に高木も驚いているようだ。
「ああ、夏妃さんと会合を望んでいたのは私なんですよ」
(ぇっ!?)
 夏妃は思わず身体ごと草汰を見上げる。
 草汰は夏妃にだけ少しわかるように、目を細め、視線で何か示している。どうやら、黙っていろと言っているようだ。
「……先ほど夏妃さんは謝っていたようなのですが、何かあったので?」
 先刻からの夏妃の動揺ぶりに、高木も少し可笑しいと思ったのか、咳払いをして草汰に聞いている。
 草汰は、女好きする微笑をすると、部下でありながらも一応は年上の高木に向かって少し声を出して笑った。
「あれの事ではないでしょうか」
 草汰は第二応接室の真中に置かれたテーブルの上の、倒れたコーヒーカップを指で指した。高木を待っている間に、あの受付の女の子が夏妃へと持ってきてくれた、インスタントコーヒーだ。
 飲む気にもなれずテーブルに置いておいたのが、何かの衝撃で倒れてしまっていたのだろう。それすら気付かなかった夏妃は、驚いた表情でそのカップと草汰を交互に見やる。
「大方、何か思うところがあって慌てて立ちあがって倒してしまったんだろう。それを謝ったのでは?博士さんは律儀なところがある人だから」
 草汰がそう言うと、高木は、ああ、と妙に納得したようだった。
「そうでしたかぁ」
 両手を叩いて、大げさに理解した事を何度も笑いながら繰り返し言った。
「では後お願いしますね」
 二人っきりになんかして欲しくないのに、高木は部屋を後にした。
 部屋には再び、異様な空気が流れる。
「……なんで」
 夏妃は涼しいのに重苦しい空気の中の、沈黙を破る。
「なんで、高木さんがあの事を……知らない」
 あの事と伏せて言ったのに、草汰には既に分かっているようだった。
 ああ、と返事をすると、倒れたカップを受け皿の上へと戻す。
「言ってない。あの人は運だけでのし上ったような人だったからな……気付きもしなかったよ」
(そうじゃない……俺が知りたいのはそうじゃなくて……)
 夏妃は言葉にならない歯がゆい気持ちに、クーラー冷えでカラカラの喉が痛む。
「なんで……無かった事になってるんだ」
 不可解だった。
 あまりに不可解な出来事に、夏妃の聡明な頭ですらパンク寸前だった。
 草汰だと思った……草汰が、夏妃の会社を落ちぶれさせようとしているのだと思っていた。
「お前が……?」
「……まだ、だからな」
(まだって……何の話しだ)
 闇の中で向かい合っているような感じだ。
 こんなに近くで会話しているのに、意図が読み取れず、意味がわからない。
 夏妃は子首を傾げ、草汰の難しい顔を覗きこむ。
「……今日のところは、少し弄ったら収集がついた……。早く帰って、せいぜい仕事にはげめよ……センパイ」
(お前が助けてくれた……?)
 そう問い掛けたいのに、草汰はそうさせてくれない。
 扉を開き、夏妃を促す。まるで、さっさと帰れと言っているように。
 ドアの所まで進み出たはいいけれど、どうしても最後の一歩が踏み出せない。
 まるで、あの日あの時、最後の一線を越えられなかったときのように。
「……」
「……また……メールする」
 動けないのは、夏妃だけではなかった事を、誰が知っているだろうか。



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