ぱぱコン

−9− −11・ラスト−学生モノ


−10−



愛実が目覚めたのは、宵威が飛び出していって程なくだった。
「……痛っ……」
 起きたは良いんだけど、腰の辺りに走る鈍痛に顔を歪ませる。
 何……痛いって言うか……重い……。
 その原因を頭の端っこで考えて、考えて、考え抜いて、思い出す。
「ぁ……」
 俺、宵威と……。
 思い出せば、生々しい感覚とともに記憶が蘇り、愛実の頬が赤く染まる。
 あれは、確かにセックスと呼ばれる行為だった。
 自分が最も忌み嫌い、避けてきた……行為。
 それを、宵威としてしまったのだ。
 宵威は……?
 急にその存在を思い出し、愛実は部屋の中を不安げに見渡す。しかし、静まり返ったその部屋に、宵威の姿はない。
 シャワーを浴びている気配もない。
 どこかへでかけてしまったらしい。
 だからと言って、それがコンビニやなんかにでかけているのとは違うんだと何故か思えた。自分ももし先に目覚めていたら、この場所にはいられないだろうから。
 そして今だって、ここに居てはいけないと心が思っている。
 俺はなんて馬鹿だったんだろう。
 宵威を苦しめたのは……俺だ。
 そして、こう考えるようになれたのも宵威のおかげなのに。
 俺は、宵威が俺の事をどんな風に好きだと思ってているかなんて、こんな深く考えた事無かった。身体に触れる事。それだけでもない、心も、身体も、頭も、深いところが全て奪われてしまう。そんな気分を、味わった。
 全身で、恐いくらいに相手の気持ちを受け入れる……そんな感覚に、俺は昨夜襲われたんだ。
「……っ」
 未だに震える小さな手は、何故なのか。
 それすらわからないのは、やっぱり俺が幼かったせいなのかな。
 愛実はソファから足を地面へと下ろす。久しぶりに足の裏に力を入れると、まるで生まれたての生き物のように、よろめく。
「ぁっ」
 足先全てに力を込めていなければ転びそうにもなってしまう。愛実はなんとかテーブルの端に掴まりまっすぐに立ち上がった。
 お腹のあたりと、下肢に微妙な違和感を感じて、思わず顔をしかめる。
 まだ後孔に何か入っているような気がする。
 宵威の熱い、熱い、そして大きな欲望の塊が。
『俺を貴方のモノにさせてください』
 そう言って、宵威は愛実の身体の中に楔を挿しこんだ。
 泣き叫んでも、痛いと訴えても止めない宵威の動きに、声を掠れても宵威の名前を呼びつづけた。
 自分のした事の許しを乞うかのように。
 そう簡単に……俺のした事が全部許してもらえるわけないのにな。
 やっぱりここにいちゃいけない。宵威が戻る前にどこかに行かなくちゃ。
 愛実は自分の身体に宵威がかけたのであろうブランケットを身に纏い、お手伝いさんが洗濯してたたんで置いたのであろう衣服の中から宵威のモノを借り身に付ける。
 大きなそのワイシャツとジーンズからは、洗濯洗剤の香りの中、ほのかに宵威の匂いがした。
「……宵威」
 再びこみ上げてきそうな涙を飲み込み、愛実はそれらを着た。
 時刻は三時過ぎ。宵威は一体何時にこの部屋を出て行ったのだろうか。
 それでもこんな夜中にどこに行けるわけでもない。すぐに帰ってきてしまうだろう。
 愛実は誰もいない部屋を振り返らずに出ると、玄関へと向かった。
 主人のいないこの家は、今の愛実には少し冷たすぎた。堅い印象をうける壁も、床も、その色は全てが灰色に写る。
「宵、威……っ」
 会いたくないのに、会いたいと思ってしまったり。
 こんなぐちゃぐちゃな自分見せたくないのに、見て欲しいって思ってしまう。
 そんな感情に、全てを預けられるほど、俺はもう子供でもなくて、まだ大人でもない。
 俺は、雨で濡れた靴を履くと、その冷たさも感じる事ができないまま、玄関を飛び出した。
 家には帰れない。でもここにもいられない。
 上手く動かない四肢を駆使し、愛実は只管に外を歩いた。

 宵威が自分の部屋に戻ってきたのは、朝の五時過ぎ。
 既に明るくなった空々が、眩しいくらいに照らしていた。
「お前、こんな所にすんでやがるのか」
 ちょっと驚いたように、誉が呟くと、宵威は淡々と答えた。
「親の金だよ」
 あんたにはまだどうせ及びませんよ。
 宵威はそう心の中で付け足す。
 どんなにがんばっても自分は子供で、学生で、今社会に無理やりでたところで、愛実を幸せにさせてやるだけの暮らしは出来ない。
 だから、そんな事しない。
 愛実を幸せに出来なければ、なんの意味も無い。
 けれど、やっぱり……愛実を守る事が出来て、その手中に置いておけるこの二人が時々ものすごく憎くなる。
 そんな事を思うほうが子供だってわかっているから、矛盾がどんどん交差して……。
「愛実はどこにいるんだ」
 車からやや遅れて下りてきた薫さんは、俺の話なんか無視してマンションに入ろうとしていた。
「今はわかないんだよ……」
 俺がここを出てきたのは三時くらいだから。
 けれど、そんな言葉も聞こえないのか、早くオートロックを解くように俺に命じてきた。
 まったく……。
「いるかわかんないんだって……俺にだって」
 いてくれたら良いなって思う。
 けど、いないんだろうなってやっぱり思う。
 なにせ、あんな事をしてしまったんだ。しかも、俺の貪欲なまでの性欲を押付けるように……。
 愛実さんとの初めてをいろいろ妄想した時期があった。
 たぶん慣れていないだろう愛実に、始めは優しくキスをする。
 そこで少し怯えるように震えてしまったら、頭を軽く撫でて、愛撫する。
 恥ずかしそうに瞳を開けた愛実に、もう一度……蕩けるようなキスをして。鎖骨の辺りから手を差し込んで服を脱がしていく。
 制服のボタンは結構簡単に縫い付けてあるから、弾け飛ばしてもいい。後で俺がつけてあげるから。
 そんな事したら、たぶん愛実はその美しいラインの眉を歪ませて、どうしていいかわかんないって顔をするんだろうな。
 だったら、俺は首筋に一生残るようなキスマークをつけて、そんな愛実を腕の中に閉じ込めるんだ。
 そしたらきっと愛実は顔を左右に振って、くすぐったい、とか、止めてとか言うと思うから、笑ってちょっとエロく俺は、嫌だって答える。
 だって、止められるわけない。そんなところで。
 それに、俺はきっとその頃には、たぶんもう勃起してしまっているはずだから。
 想像で何度も汚した愛実の実物を、この身体の下に組み敷いたら、たぶん俺は可笑しくなる。
 猿か、ウサギかとにかく獣に成り果てて、恐ろしいくらいに貪欲に愛実を欲しつづける。
 でも、そんながっついている俺を悟られたくなくて、俺は必死に必死に愛実を苛める言葉を捜すんだ。
 そんな俺の言葉一つで顔を赤くしたり、身体を火照らせたり、する愛実が愛しくて、愛実の大事なところ全部を舌で舐めてベトベトにしていくんだ。
 声を押し殺すように喘ぐ愛実が、口を抑えている手を無理やり剥がして、声が枯れるまで俺の名前を呼ばせるんだ。
 宵威、って。
 ずっと俺は自分の名前が嫌いだった。
 世界を勢力で抑えさせると言う意味でつけられた俺の名前が。
 けれど、貴方に呼ばれこの名前は意味を変えた。
 貴方に呼ばれるための名前、として。
 だから、呼んで貰うんだ。
 そして、ヒクついてきた蕾に、俺は唾液を注ぎ込む。
 本当はローションとか使った方が愛実の負担も減るし、ゆるゆるになって滑りがいいんだろうけど、俺は初めての時はローションは使わない。
 愛実の味を、俺の舌でちゃんと味わいたいから。
 そして、ゆっくりゆっくり慣らして、一時間でも二時間でもかけて、愛実の身体を開いていくんだ。
 そして、やっと挿入……。
 愛実はたぶん泣くだろうけど、痛いって言うだろうけど、それ以上に気持ちよくなるくらい努力する……。
 そんな。
 そんな妄想をもう……何度しただろう。
 妄想の中の愛実は、俺の下で恥ずかしながらも可愛く喘ぎ、俺を受け止めた。
 でも実際は……?
 可愛そうに怯える愛実を、力で押さえつけてしまった。
 大好きな人なのに、大好きな人なのに、大好きな人なのに、嫉妬で大切に出来ないなんて最低じゃないか。
 醜い俺の嫉妬は、愛実に近づく女にも、男にも、動物にすらはたらく。
 お願いだから、誰も傍に来ないで。
 あの人は無防備だから。
 俺だけのモノでいさせて。
 俺は、誰かが傍に来ると敵わないと自覚している馬鹿な野郎です。
 ねぇ、神様。
 愛実さんを俺は大好きなんです。
 壊されたくなかったんです。だから、自分で自ら壊してしまった。
 他人に壊されたくなんて無くて。
 他の人に触られて悶える愛実なんて、見たくなくて。
 これでますますゲイ嫌いになってくれればいいなって思ってしまう自分もいる。
 だって、そうしたら、一生……愛実は俺のモノだ。

「宵威……この部屋か」
 エレベーターに乗りついた俺の家のドアの前で、誉さんはしかめっ面のまま聞く。
「ああ」
 俺は家のドアを開くと、誉さんと薫さんは、どうぞと言ってもいないのに部屋に入り込んだ。
 ドタドタと無作法な足音が家中を歩き回る。
 俺は玄関から中に入れず、そこで待っていた。
 だって、もし……愛実さんがいても、いなくても、俺は同じくらい苦しくなるから。
「いない」
 薫さんがしばらくしてそう呟いた。
 透き通るような声だけれど、明らかに俺に敵意剥き出しのようだった。
 そんなに息子の貞操奪ったのがムカツクのか?普通の親って。
「隆二んとこか……?それとも正宗……」
 誉さんは携帯を取り出しながら、思い出せるだけの愛実の親しい人たちの名前を思い出している。
 けれど、愛実さんがそのどこにもいない事を俺は確信が持てた。
 だって、愛実さんが家を飛び出してどこにも行けないようにしたのは、紛れも無くこの人たちだ。
 愛実さんに親しい人が出来ないように、愛実が誰かを思わないように、誰にも思われないように大切に、大切に守ってきたのだ。
「くそ……つながらねぇ……」
 まだ朝の六時を過ぎたところだ。何の事情もしらないあの二人は、ベッドでノウノウと寝ているんだろう。
 まさか、俺が愛実さんを……なんて想像もせずに。
 泣いていていたな……愛実さん。
 そして最後には謝った。
『ごめん……さい』
 宵威は、愛実の声を思い出し、拳を強く握り締める。
 何を謝るって言うんだ。なんでそこで謝るんだ。
 今まで散々人を振り回して、弄んで、人に謝るなんてほとんどしない貴方が。何故、こんな時ばっかり……。
 俺は愛実さんに最低な事をして、最高の繋がりを作ってしまったのに。
 それでも、俺は……愛実さんを手放してやる事なんて出来ないんだ。
「……誉……さん、薫さん?」
 俺は努めて冷静に声を振り絞る。無論、冷静なんかじゃなかったけど。
 思っていた通り、二人は鋭い瞳をこちらに投げつける。
 会話して頂いているだけ、マシってやつかな。
「そもそも……愛実さんが可笑しいって思うのも、俺があんたらに……変な疑い持っちゃうのも……田宮家が隠し事ばっかりするから、だろ」
 二人の表情が少しだけ焦りを見せた。
 やっぱり……。何があるんだよ、この家。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないの」
 誉さんは少し無言になってから、煙草をポケットから取り出し、俺の脇を通って廊下へと出て行った。
 愛実さんが少し前に言っていた。誉さんは、怒りが頂点に達すると、禁煙していた煙草を我慢できず取り出すんだって。
 つまり、今、誉さんのご機嫌は、サイアクらしい。
 残った薫さんは、英国人のような線の細い顔を何度も小刻みに動かし、それから小さく言った。
「……そうかも、な」
 扉を閉めずに出て行った誉さんにもその声は聞こえたのだろう。
 誉さんは、血相を変えて部屋に戻ってきた。
「薫!」
「だって……不本意でもコイツの言う通りだ。愛実が何も知らないってずるいだろう」
 薫さんは、その疲れたようにやつれた顔をなんとか上へと持ち上げさせ、誉さんを見た。
 誉さんは、火の点いていない煙草を拳で握り締め、ライターをポケットへと戻す。
 今までに感じた事の無いような、異様な雰囲気がその場に立ち込めた。
 やっぱり、俺はまだこの二人には敵わないらしい。
 空気だけで威圧されて、俺は言いようの無い憎らしさを二人に感じた。
「……どうぞ。話は中で聞きますから」
 話を切り出さない二人にかわって、俺が口を挟むと、誉さんは無言で中へと戻った。
 握り締めていた手が、ぎゅっと鳴るほどに汗をかいているのがわかった。
 緊張している……この俺が。
 そりゃそうだ……だって、あの誉さんと薫さんが、話をしてくれようとしているんだ。
 このチャンスは、俺の一生にあるかないかの……好機。
 俺は慎重に言葉と態度を頭で計算しながら、再び二人を室内へと案内した。

 トン……と言う軽快な音を出して、暖かなココアが俺の目の前に出された。
 まったく……俺がコーヒー飲めないってもしや思ってるんじゃないか、この人。今は砂糖とミルクたっぷり淹れればちゃんと飲めるんだから。 
 そんなちょっとしたプライドに傷を感じながらも、俺は冷えた身体にそのココアはありがたく、思わず笑みをこぼした。
 すると、そのココアを運んできてくれた人は意外そうに笑った。
「愛実君ってやっぱり可愛いね。綺麗だし……うん、やっぱり芸能界向き」
 顎に手をあてながら、そんな事を呟いた工藤さんを、俺は上目遣いで睨む。
「可愛い、は止めてください」
「あ、そうか。苦手だったんだっけ、そう言われるの。ごめん、ごめん忘れてて」
 別に、苦手ってわけじゃないんだけど。
 ただ、思い出すから……昔を。
「それにしても、まさか僕に連絡をくれると思わなかったな」
 そう、俺が逃げ場が無くて連絡したのは、俳優業を営む誉ちゃんのマネージャーさんである、工藤さんのところ。
 何故工藤さんの連絡先を知っていたかと言うと、前にこっそり俺に連絡先を書いた紙を渡しておいたのが、どこに残っていたのか、身体を揺さぶったら出てきたんだ。服のどこかに挟まってたみたいで。
 それで、俺は連絡して、事務所の一角に置いてもらっているというわけ。
「まさか、あの誉が許しを出したとも思えないし……?」
 しかも、俺の格好は、デカイ宵威の服を着てよれよれだし。あからさまに、何かありましたって格好だ。
 俺は居た堪れなくて、目の前のココアをすする。
 工藤さんは、俺の目の前ではなくて、横の席に座ると、俺を見ずにいつもの優しい声で話しかけてきた。
 俺に話しかけてくれる時はいつもこの声のトーンだから、仕事中は敏腕でやり手なマネージャーだと言う事をついつい疑ってしまう。
「何か……あった?」
 ドキンと胸が痛んだ。
 何かないわけがない。
 なかったら、俺は今だってベッドですやすや寝ていて、馬鹿な子供でいたんだ。
 だけど、あってしまったから、ここに来ちゃってるんだ。
「誉と……まさか薫さんと喧嘩……は、ないか」
 俺に話しかけているのか、それとも独り言なのかわからない口調で、工藤さんは言葉を続ける。
「もしかして、あの二人の何か秘密でも知っちゃったとか……ははは」
 工藤さんは笑っていたけれど、俺は緊張で身体が可笑しくなりそうだった。
 誉と薫の秘密……。
 秘密を、誰にも話せない事だと言うのなら、あれはまさしく二人の秘密だ。
 気付かなきゃ……よかったのかな、俺。
 上手く笑えなくて、俺は薫と誉がいつも綺麗だって誉めてくれる顔を歪ませた。
 工藤さんはそれに気付いてか気付かないでか、その話題をそれで終わらせた。
「工藤さん」
 少し間を置いてから、俺は隣に座る優男風の男に話しかける。
「ん?」
 工藤さんはイスに座ってから初めて俺の方を向いた。
「――工藤さん、いつも俺の事芸能界向きだって言ってましたよね」
「あ、ああ。もちろん、あの誉の息子だからって言うんじゃないよ。何て言うか、君にはオーラがあるんだ」
「だったら!」
 俺は思わずたちあがって、工藤さんの前のテーブルに手をついた。
「だったら……俺に何か……仕事をくれませんか」
 走ったわけでもないのに上がる息に、俺以上に驚いたのは工藤さんだった。
 優しく垂れ下がった瞳を、大きく見開き、工藤さんもたちあがった。
「え、ええ?」
 いつも俺を芸能界へ誘っていたはずなのに。
「げ、芸能界の仕事って事かい」
「はい」
 別に仕事はなんでもよかったんだけど、今すぐ……働きたかったから。
「なんでもやります……別に目立つ仕事じゃなくても、掃除でも、なんでも。だから、お願いですから……俺を暫くここに置いてもらえませんか?」
 人に懇願する事等初めてだったかもしれない。
 俺は人にどう思われているか知らないけれど、裕福で馬鹿な子供だったんだ。
 だから、粗末なプライドも守って来れたし、人に頭などめったに下げなくても通ってきた。
 けど、今……俺は、そんなの違うって思えた。
 俺が大切にしたい人は誰?大切にしたいものは何?俺が……俺って……。
「お願いします!」
 ぐっと息を飲みこんで、頭を下げようとした俺の額をこれ以上下がらないように、工藤さんは間一髪で抑えた。
「止めなさい……止めるんだ」
 やっぱり、俺以上に落ちつくのが必要なのは工藤さんだ。十分言葉しゃべってもいないのに、はぁはぁと言う吐息が聞こえる。
 そして、強い力で俺の頭を元の位置まで戻すと、横のソファに倒れこむように座った。
「ストップ……ストップ……。だいたい未成年者は保護者の同意なしで仕事は出来ないし……」
 半分自分自身に言聞かせているようなその言葉を呟きながら、工藤さんは溢れ出してくる汗を拭った。
 愛実は勢いが抜けた風船のように、元のイスに座りこんだ。
「一体……どうしたっていうんだ……」
 工藤さんは顔を手で覆い、一瞬にしてフルマラソンを終えたような声で言った。
 どうしたって……言われても……。
 俺が黙り込んでいると、バッと急に工藤さんは身体を起こした。
「まさか……」
 まさか?
 工藤さんの大きな声に、今度は俺が驚いた。
「まさか、渚ちゃんのに何かあったとかじゃないよねっ」
 普段、マネージャー業をバリバリこなす工藤さんは、こんなに声を荒げる人じゃない。
 それなのに、そんな人が冷や汗すら額に浮かべ、自分の前のテーブルにバンッと手をつき、呼吸を乱し、俺の知らない人の名前をあげた。
 なぎさ……って言った?
 誰、渚って……。
 渚ちゃんって言ったからには、女の人……?
「な、ぎさ?」
 俺が意味がわからないと言う声でその名前をしゃべると、工藤さんはもっと驚いた顔になった。
「もしかして……知らないのかい」
 まるで、俺が知っていて当然と言う風に、工藤さんは言った。
「知らない……です」
 誰、一体……。渚って。
 俺は狼狽する工藤さんを座らせながら、自分を落ち着かせようと必死だった。俺の人生に、今まで関わった人物に、そんな名前の人はいなかった。
 だいたい、女の子はずっと苦手だったし、記憶にある女の子って言えば、昔、俺に『愛実ちゃんのお家って変』を告げたあの子くらい……。
 あ、あれ?
 そう言えば、前……夢の中に一人……女の人が出てきたような。
「なんで君が知らないんだ……まさか誉たちから何も聞いてないんじゃ」
 誉と薫は知ってるんだ……。
 渚ちゃんって人の事を。
 そして、工藤さんも。
 なのに、知っているはずの俺が知らない。
 誰……なんだよ……渚って。
「工藤さん……渚って一体…誰なんですかっ」
「誰って……」
 誉が俺に告げていなかったと言う事で伝えずらくなったのか、工藤さんが口元を抑ええ口篭もった瞬間、工藤さんのポケットが揺れた。
「ごめん、ちょっと失礼するよ」
 工藤さんはポケットから携帯電話を取り出すと、俺に背を向けて電話に出る。
「もしもし……誉っ?」
 工藤さんの声に、俺はハッと顔をあげた。
 どうやら電話の主は誉だ。
「う……ん……うん、えぇっ?こっちに?なんで……」
 会話はどうやら誉が一方的にしゃべっているらしく、工藤さんはめったに返事以外の言葉を発しない。
 誉は俺が居なくなっている事に気づいたのかな。
 気づく……よね、そりゃ。
 時計をチラリとみながら、愛実は膝の上の手をぎゅっと握り締める。
 ピッと言う、ボタン音と共に、工藤さんがこちらを見ずに言った。
「誉がこっちに来るって」
「え」
「……俺は今の愛実君の状態を見て、こっちに来させないようにしようと思って、いないって一応答えたんだけど……。テレビの電波使ってでも探すから、とりあえず事務所行くからって……どうする?愛実君」
 工藤さんは、ごめんねって俺に言うように眉尻を下げた。
 どうすると聞かれた俺に、選択権はもはや無い。
 俺は何がどうなりたくて、家を出たのかも、宵威に会いにいっちゃったのかも、何もかも全部謎が解けるような気がしたんだ……。
 ここにいて、誉の話を聞けば。
「ここで……待たせて下さい」
 しっかりした声で言うと、工藤さんは小さく頷いた。
 その顔が少し微笑んでいたから、俺は少し落ち着いた。
 
その日は、マネージャーとしての仕事も一段落ついていたようで、工藤さんはほとんど俺につきっきりでいてくれた。
「ねぇ、本当に仕事する気……あるの?」
 すっかり落ち着いた工藤さんは、そんな事を聞いてくるほどだった。
「え……ぅ……」
 俺に誉みたいな事をしろといわれても絶対無理な気がするんですけど。第一、あんなにいつも笑ったり出来ないし。
 俺が返答に困って、二杯目に突入した温かなココアをすすろうとすると、地震のように急に地面が揺れた。
「あ……」
 工藤さんは携帯についている時計をチラリと見て、来たな、と小さく呟いた。
「着いたよ、誉」
 薄く笑いながら、工藤さんは俺にそう教えてくれた。
 ドタドタとした足音が俺のいる応接室に近づき、聞こえてくると、俺は少し下唇を噛んだ。
「大丈夫、だよ。きっと……」
 工藤さんは、大きな手で俺の頭を優しく撫でる。
 どちらかと言うと、大丈夫じゃないのは工藤さんの方みたいだった。
 バンッ!!
「工藤っ」
 誉のこんな声を聞いたのが、ずいぶん久しぶりのような気がした。
 まだ一日だって、俺の家では成立してないのに。
 やっぱり俺ってずいぶん甘ちゃんだったんだなって思ってしまうよ。
「てめぇ……」
 ズカズカと入り込んできた誉は、何はともあれと言う感じで、工藤さんの胸倉を掴み襲い掛かる。
「何が『愛実君はここにはいない』だよ…。さっき受け付けの女が、愛実がここに来たって……」
「そうだよ……だから、愛実君はここにいる……ほら」
 そこでようやく誉の目に、俺が入った。
 誉は無表情で工藤さんを地面に落とすと、俺に抱きついた。
「愛実っ……」
 普通は怒るんじゃないの?もう少しさ。
 勝手に家出して……とか。
 でも、そんな誉の態度が、俺はすごくすごく嬉しくて、背中に腕を回す。
「誉ちゃ……」
 俺が小さくその名前を予防とした瞬間、誉の後ろにいていままで見えなかった、薫と宵威の姿が目に飛び込んだ。
「……薫……宵威っ」
 薫はまだわかるけど、まさか宵威まで一緒に居ると思わなくて、俺は体中の血が抜け落ちるほどの感覚にさらされるのがわかった。
「ごめん……ごめん愛実っ」
 薫はそう言うと、俺の頭を抱きこんだ。
 薫……泣いているの?
 俺が……泣かしてるの?
「薫ちゃん……」
 俺達が感動の親子対面をしているってのに、そんな間を割って入ったのは、宵威の声だった。
 誉と薫に身体をぎゅってされてるのに、なんでだかその声はよく俺の耳に飛び込んできた。
「誉さん、薫さん……行くんですよね、病院」
 病院?
 俺はわけがわからないと、薫を見ると、薫は小さく頷いた。
 病院……って、なんの為に?
「愛実、俺はお前に話していない事があるんだ」
 誉は少しだけ俺から身体を離し、それでも俺の両腕をしっかりと握り締め、珍しく真面目な顔でそう言った。
「着いてきて……くれる?」
 震える薫の声は、いつもよりずっと繊細に聞こえる。
 この言葉を言うのにどれだけ時間がかかったかがわかる。
「……」
 俺は薫の頬に小さくキスをすると、驚いた顔の薫に笑いかけた。
「……うん」
 俺は自分の言葉を、もう考えてしゃべっていない事に気づく。
 本能の赴くままに、俺の口が勝手にしゃべっている感じ。
「全部……教えて……」
 今度は薫が俺のおでこに軽くキスをした。
「約束する」
 そう、小さく告げて。

続く。


−8− −11・ラスト−学生モノ


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