目の前で倒れた俊貴を花月は胸が痛くなる思いで見つめていた。
初めて見た人だった。そんな人に、なぜ自分はこんなことをしなくてはいけないのだろう。
身体に触れてこられるのは、恐い。
けれど、それ以上に自分の行為で意識を失っていく男達を見るのは、善良な花月にとって心が痛くなる思いった。
「済んだか」
ノックもなしに入ってきた呉羽に、花月は小さく頷く。
花月の着衣を簡単に直す呉羽に、花月は泣きながら抱きついた。
「ふっ……うっ……」
「何かされたのか」
淡々と聞いてくる呉羽に、花月は首を振った。
何もされてはいない。何も……そう何も。
「なんで……こんなことしなきゃいけない……の」
聞いたものを虜にさせるような、小鳥のような声で泣きじゃくる花月の頭を呉羽は撫でる。
「お前は、こうしなきゃ生きていけないからだと説明しているだろう」
物心ついたころからこの塔で生きてきた花月にとって、世界の全ては呉羽だ。
その呉羽がそういうのだから、そうなのかもしれない。
世間知らずで、外のことを何も知らない。
自分は毎夜毎夜、自らの姿を見に集まった男達に接吻と一緒にクスリを盛り意識を飛ばせる事しか出来ない。
悪い事をしているとしか思えない。
身体がおかしくなるようなキスをしても、心が悲鳴をあげる。
「お前は俺のいう事を聞いていればいいんだ」
「呉羽ぁ……っ」
花月は呉羽を拒絶することなどできない。
自分を大切に大切に育ててくれた呉羽。そんな呉羽に今更何もいうことはできない。
呉羽の言うとおりにキスを覚え、それで毎夜男達を翻弄する。
姿を見、キスするだけで一千万という大金を奪われるというのに、花月のまるで妖精のような魅惑的な美しさを一目見たいと訪れる客は後を絶たない。
「良い子だ」
花月は、事を終えると必ず呉羽の胸で泣くようになっていた。
苦しい、苦しい、けれど抜け出せない螺旋。
誰かに助けて欲しいと思うけれど、それは誰なのか。
花月の世界には呉羽しか存在しない。
「ん……っ」
頭が……重い。
酒に強い俊貴が、酒で倒れた事は今の一度も無い。
生まれて始めての苦痛と頭痛に俊貴は目すらあけるのも億劫に感じてしまう。
「俊貴、俊貴」
アゲハの高い声がする。
ボンヤリとする頭の向こうで聞こえる声に、俊貴は意識を少しだけ覚醒させる。
「俊貴!」
「うるさい……起きてる」
本当は半分くらいまだ寝ているけど、これ以上叫ばれたら頭がどうにかなりそうだから、とりあえず目を開けて、声を止めさせる。
「……ここは…」
気が付いたそこはアゲハの部屋。
俊貴はアゲハの膝枕で寝ている格好になっている。
確かに今日佐倉に来て、この部屋に通った。
でも、何か忘れている気がする。
それに、まず俺は膝枕なんてオヤジ趣味なことはしない。
目を覚ましたのはいいけれど、相変わらず空ろな視線で天上を見ている俊貴をアゲハは呆れたように頬を優しく叩いた。
「もう〜、だから気をつけてって言ったじゃない。あぁ、ねぇ大丈夫」
アゲハは俊貴の頭の上の氷嚢を新しいのに替えながら、ため息をついた。
気をつける……?
一体に何に……。
ん……。
「あっ……痛っ」
咄嗟に全て思い出し身体を急に起き上がらせようとして、激痛が頭をよぎる。
痛い……ものすごく頭が痛い。
「無理しないで俊貴。普段ならこんな強い効き方しないんだけど。それに、こんな寝起き悪いはずないんだけど。ちゃんと法に基づいた用法、用量は守ってるはずだから」
「最悪だよ」
文句を言えるようなら大丈夫だろうと悟ったのか、アゲハは俺の頭を撫でながらニコッと笑った。
「……で、花月ちゃんはどうだったのかしら」
どう…って、どう言えば良いんだろう。
見た印象は……妖精みたい。
儚くて、零れそうで、壊れそうで。
そこまで思い、俊貴はまるで少女漫画の主人公のような自分に赤面する。
これじゃあ……まるで。
「…………」
「何もしゃべらないってことは気に入ったんだぁ。なんだか、妬けちゃうなぁ」
傍にあった日本酒をぐいっと飲んでアゲハは笑った。
俊貴にも勧めてきたけれど、さすがに今は飲みたい気分じゃないので首を振って断る。
「花月は……ずっとあそこにいるのか」
アゲハの言葉を認めようとも、否定しようともしない俺の返事に、アゲハは少々詰まらなそうに唇を尖らせる。
自分でもどうかと思う。
一目で魂を奪われてしまったかのような状態に陥った、あの時の自分を考えると、居たたまれない。
もしそれが、恋に落ちるという事ならば、俊貴は初めて恋に落ちたのだ。
そして、どっぷりはまっている。
「……そう、よ。でも、お客をとったのは十三歳のとき。あたしと一緒の歳ね。始めは」
十三歳……。
じゃあ……まだ二年、三年しかやってないってことか。男慣れしてないのも、そのせいか…。
俊貴は夢のような妄想の中で、さっきの花月を思い出し一人納得する。
「でも、この世界五年目だし…。まぁまぁの実績よ」
「は」
俊貴は再び大きな声を出してしまって、自らクスリで痛む頭に激痛を与える。
「痛っ…くそっ……」
「ちょっと、俊貴、大丈夫、どうしたのよ……」
いきなりの反応を見せた俊貴に、うろたえるのはアゲハの方だ。
「お前……アゲハ……今、あいつ…の事なんだって……」
痛む頭を必死に使って、俊貴はアゲハの言った事を思い出す。
十三でこの世界に飛び込んで、五年って……じゃあ、花月は……。
「もしかして、花月ちゃんの歳を誤解してるんじゃない。あの子、もう十八歳よ」
な、な、なんだって。
と、年上?
あれで……。
俺よりずっと華奢で、小さくて……脆くて……。
「やっぱり誤解してたわね」
何も言えずに、口を放心したようにあける俊貴にアゲハはクスクスと笑う。
こんな子供っぽい俊貴を見たのは初めてのような気がする。
普段はずっと虚勢をはるように、大人ぶっている姿がまたこれが様になっているから。
「信じられない……」
どうしたらあんな風になるんだろう。この世界で働いていて。
五年もやってたら、普通の商売女…なら、堕落人生を歩んでる頃だ。
身体を売って金を貰う事が、普通の事に感じてくるはずだ。
なのに、花月は違う。
俺が触れればそれに拒絶の感情を見せ、けれどそれは拒否できないという葛藤に悩み、苦悩する様が手に取るようにわかる。
「まぁ……これは噂なんだけど」
「なんだ」
「ココまできたから言うけど……花月ちゃんと呉羽、親類らしいんだけど…呉羽は花月ちゃんを情人にしてるって話があるのよ。だから、特定のお客さんにしか逢わせない……とか」
そして、逢わせても、キスで溶かしてクスリで眠らせちゃうってわけか。
「愛人……か」
なるほどだ。
それなら、説明がつく。
俊貴は顔で笑い、心で呉羽を睨んだ。
それは、最高に気分が悪い事だった。
呉羽は、あの花月を毎晩毎晩好きなように扱いめくるめく快楽の海へと誘っているのかと思うと、激しい念に襲われる。
その思いの正体は嫉妬だとすぐにわかった。
「なぁ……花月を買うって事になったら、いくらするか知ってるか」
これは一晩や一回という単位ではなく……一生を買うという事。
佐倉ではたまに行われることだった。
本当に気に入った女を自分だけのものにしようと、大金を出して買うのだ。
だいたい、二千万から五千万が妥当と言ったところだ。
アゲハなら、一億以上つける客もいるだろうけど。
独り言のように言うと、アゲハはとんでもないとばかりに、俺の頬を今度は少し強めに叩いた。
「そればっかりは無理。言ったでしょう、呉羽の情人だって。呉羽が手放しはしないわ」
「……もしもの話だって言ったじゃないか」
半分以上、本気だけど。
俺が少し冗談めかしていうと、アゲハも肩の力を抜いたのか、もしも……の話をしてくれる。
「そうね……十億は固いんじゃないから。前、どこかの国の大統領さまが花月ちゃんを見初めちゃって大変だったのよ。五億だか出すっていったけど、呉羽まったく首を縦にふらないんだもん」
もう、店の女の子大騒ぎ。
アゲハはその時のことを思い出してか、いまだに胸の動揺を抑えられないようだ。
「つまり、あいつに金は付けられないっていうのか」
金だけじゃ……ダメだ。
力づくでも……ダメ。
花月を……あいつを手に入れるためには、呉羽の呪縛から取り除くことが必要だ。
けど、もし……花月が悦んであそこにいるのだとしたら。
「奪うだけだ」
「ぇ」
低く、企みを含めた声で俊貴がつぶやけば、アゲハが怪訝な顔つきで覗きこんだ。
「独り言」
俊貴はそう言うと、狸寝入りを決め込んで黙り込んだ。
アゲハも、氷嚢を替え、再び黙り込んだ。
忘れられない、キスの余韻が、俊貴を襲った。
あんなに甘く記憶に残り、激しいキスは今までに一度も無かった。
そして、自分がそれに惑わされるなんて……。
絶対に、自分のモノにしてみせる。
俊貴は、そう心の中で堅く決心した。
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