誘惑ハニー×ハニー

職業。 −2− 小説。


−1−


慌しくめまぐるしく動く社会。その中で、唯一と言うか特殊と言うか、不況の影響をほとんど受けず、同じような回り方で成長しつづける職業がある。
 それは、芸能界。
 華やかな響とは裏腹に、その背後は黒く荒んでいて。
 なるほど、芸能人の親がなかなか子供を芸能界に引きずりこまない理由がわかると言うものだ。まぁ、入ってみなければわからないのが恐ろしいところでもあるのだけれど。
 そして、そんなテレビに映る表舞台で働く人もいれば、そうじゃない人ももちろんいる。番組ディレクターから始まって、カメラマン、照明、音声、衣装、ヘアメイクにいたるまで、一つの番組、一人の有名芸能人をお茶の間の皆様に届ける前には、それはそれは沢山の人が関わるのだ。
 そして、その裏方の中でただ一人、「怒られるのが仕事だ」とまで言われる厳しい仕事があった。
 それは……。
「上原っ」
 本日三回目の自分の名前を呼ぶディレクターの声に、上原 蜜(うえはら みつ)は負けじと大きな声で返事をする。
「はい、新堂さん」
 Tシャツに薄汚れたジーンズからは、人気テレビ番組「お料理キング」の製作に携わっているとは考えにくい。
 蜜は首から下げている様々なものを会話するのに邪魔にならないように、背中に回す。
「二品目の『季節の食材タルト』の苺とクランベリーが届いてないようだが、どうなってるんだ」
 この番組「お料理キング」は毎日お昼に放送している奥様方をターゲットにしたお料理番組だ。毎日放送しているのだから、こんなにキリキリと神経を張るほどの仕事ではないと思うのだが、実は今日はわけがあった。
「『食材はリハ一時間前に、スタジオ隣の楽屋の冷蔵庫に入れておくこと』これはお前の仕事だろっ。上原、お前ADになって何年目だ」
 アシスタントディレクターの略称で呼ばれ、上原は静かに頭を下げた。
 そう、この業界唯一「怒られるのが仕事」なのは、上原他数人の若い人たちが担当しているこのポジション、AD。
 名前だけ聞くと格好良いような気もしないでもないのだが、その生活は家に帰ることもままならないほどハードで、厳しい。
「すみません、今確認し……」
「謝ってる暇があったら確認して来いっ!今日がどんな日かわかってるんだろうなっ」
 ディレクターの新堂は、本番前のスタジオだというのにわざと気がはるような声で蜜を詰った。
 彼も今日の「大物ゲスト」のせいで焦っているのだ。
 もともと、非道という噂の耐えない新堂ディレクターに怒られる上原をみんな見てみぬ振りしていた。
 このとき、スタジオの中にある特設冷蔵庫の中に食材が入っていることが多くのスタッフの頭によぎっていた。それをしたのは、蜜以外の新人ADであったことも。
 しかし、誰も助け舟など出さないのだ。
 それが、ADにとっては普通だし、巻き込まれたくないと言う気持ちも多少あったのかもしれない。
 蜜がようやく新堂から開放され、スタジオ内の大きな冷蔵庫を確認して中に食材が入っていることを確認していると、再び新堂の声が上原を呼んだ。
「上原っ」
「はい」
 蜜は冷蔵庫の扉を閉めると、こんなに忙しいのに自分は微動だにしないディレクター席に走っていった。
「新堂さん、なんでしょう」
「お前、あの人を迎えに行ってこい。予定通り、後二十分後にリハーサル開始するからよ」
 ちゃんと禁煙ってことになっているスタジオでプカプカと煙草を吸っていたディレクターは、それでもその言葉を発すると自ら煙草を消した。
 例のあの人は煙草をもちろん嫌っていると言う噂は、そう珍しい話でもない。
「はい、呼んできます」
「さっさと行ってこいっ」
 ニコチンが不足するとイライラも増すのか、新堂はグチグチと蜜の後姿に愚痴をこぼしていた。
 あの人の楽屋までそう遠くない。
 それでも蜜は「急いでつれて来い」と言ったディレクターの言葉を守るため、小走りでスタジオから楽屋までの道のりを行く。
「おはようございます、上原さん」
「おはよ、上原」
「おーっす、蜜。今日もこき使われてんなぁ」
 すれ違う人たちはほとんどが知り合いスタッフ、マネージャーさんたちで、みんな蜜に笑顔で挨拶してくれる。
 蜜はほんのり微笑んで、ペコリと頭を下げて返事を返した。
 天然と称するのが一番良い表現なのかもしれないが、蜜はそこにいるだけで気持ちがほんわかする……と言うか、むしろ好感を持ってしまう、そんな体質だった。
 そんな蜜だから、こんな汚いと言われる芸能界で働いていても、蜜の悪口を言う人はほとんどおらず、だいたいにおいて表舞台に立つ有名人の方々はADになんて見向きもしない人が多いのに、そっちの方の人たちとも蜜は繋がりが広かった。
 下心があったんじゃないかと思われる人も何人かいないことはないけれど……。
「よ」
「須崎、おはよう」
「今日はあの人が出るんだって!?俺も見に行こうかなぁ」
 途中の分かれ道で出会った同僚のカメラマン須崎が、カメラを支える大きな肩を慣らしながら言った。
「緊張してんだろ」
「……してないよ」
「嘘つけーっ」
 頭をシャワシャワとかき回されて、蜜は小さく悲鳴をあげる。
 アマチュアではあるがサーファーでもある須崎の手は大きく、蜜なんてガシッとつかまれてしまいそうだ。
 ただ、その手は暴力には絶対に使わず、包容力の有るとても信頼できる手だ。
「してないって。芸能人がこようが、有名人が来ようが、一緒だもん」
「……お前ってマジ良くこの世界で働いてるなって思うよ」
 須崎の呟きに、蜜は返事を返さなかった。
 そう、蜜は有名人とか芸能人とかにとっても疎かった。美的センスがずれているのか、やっぱり天然なのかわからないけれど、とにかく野次馬精神がまったくない。
 この業界に合っているといったら、合っているのかもしれないけれど。
 美しいとか、かっこいいとか、可愛いとか、もちろん思うけれど、キャーキャー騒ぐということはない。その分、芸能人一同に可愛がられていると言う話もある。
「だって、料理作りにくるだけだよ」
「料理って……知ってるか、お前。あの人のコース料理二人前で二十五万だぞ、二十五万。レストランの予約は一年先まで埋まってるって話しだし」
「なんで料理がそんなにするのっ」
 有名とか、カリスマとか新聞や雑誌、テレビで名前はもちろん聞いた事があったし、その人のコメントをテレビなどで聞いた事もある、でも、料理の値段まで知らなかった蜜は、大げさな声をあげて、ますます須崎を疲れさせる。
「お前って、本当……お前って感じ」
 わけのわからない須崎のコメントに、蜜は頭をかしげた。
 その仕草が可愛くて、須崎はプッと噴出す。
「いいよ、いい。お前はそれでも。あ、じゃあ今度飲み行こうぜ」
「ぁ、うん……じゃ」
 蜜が足を止めると、須崎はそのまままっすぐ歩いていってしまった。
 例のあの人が目の前にいるという楽屋を覗きもせず行ったところを見ると、やはり野次馬でも業界人だなと蜜は思う。
 スタジオから一番近い位置に存在するスタジオはビップルーム。
 大御所の演歌歌手や、ずーっと人気のある歌手の方々しか使えない幻の楽屋。部屋は完全に美が施されていて、塵一つない。お弁当は、弁当屋さんに頼んだものではなく、毎回ここを使われるたびに日本全国の美味しい料理屋からわざわざ取り寄せているモノだ。
 大きな鏡が部屋全体に設置され、テレビはプラズマの薄い壁掛けテレビ。パソコンすら設置されていて、インターネットも使い放題。
 しかも、防音設備が完璧で、中で何をしているか、外からはまったく聞こえない。
 一度、海外から招いたロック歌手が、隣のスタジオで本番真っ最中にも関わらず、ノリノリで演奏していたこともあったらしい。
 蜜は、コンコンと二回手の甲でノックしたけれど反応がなくてどうしようかと迷った。
 もう一度強く鳴らしても、中からは反応がない。
 外側から中に連絡する方法として、唯一音が通るようにしているドアをこんなに強く叩いているのに、返事も何もないとはどういうことなのだろうか。
「もしかしてトイレとか……ぁ、でもだったらマネージャーさんとかいるはず……」
 時計をチラと見ると、リハ十五分前だ。
 まずい。これ以上遅れると新堂ディレクターはますます怒ってしまう。
 そして、本番終わった後も、ネチネチと言いつづけるのだ。
「よしっ」
 返事をしてこないのが悪いのだ。蜜はそう思い、ノブに手をつけた。
 それよりも、もし中で倒れていたりしたら、責任問題でもあるし……。
 何せ、今日のゲストは例のあの人なのだ!
「失礼します、あの……」
 蜜は取っ手をグイッと回して、内側にドアを押し開けた。
 すると、飛び込んできたのは一面ガラス張りの高級楽屋。
 ――の中で、まぐわう……男と女。
「ぁ……ほら、もう……駄目じゃない、スタッフさん来ちゃった……」
 しかも女のほうは、派手めのピンクのスーツを乱し、ほとんど下着状態。
 前面ガラス張りだから、左右前後全ての位置の女の人の格好が見えた。
「……残念だね、また今度だ」
 女受けする唇を笑わせて、男は自分の上に乗っからせていた女を降ろした。女はさも引きずるように男のうなじにキスをし、そして絶対にその男には見せないであろうものすごい目つきで蜜を睨んだ。
 まるで、邪魔、とでも言うように。
「ああ、君ADくんかな、本番かい」
 爽やかな声で話し掛けられても、蜜は固まったまま返事が出来ないでいる。
 女はどうやらメイクさんだったようで、机の上に散らばった数々のメイク用品をボックスに入れ、適当に服を直すと女は蜜の横を通り過ぎていった。
 それでも蜜は、ドアを閉めることもできないでいる。
 というか、こんな状況で出て行った欲しくなかった。
 この男と二人っきりにして欲しくなかった。
 これが、例のあの人!?
 あの、有名な料理人!?
 フルコール二人前二十万を生み出す黄金の手をもっている人物!?
「おや、人の情事を目撃した無粋なわりに、純真なのかい」
 どうみても動けなくなっている蜜に近づきながら、男は服装を正している。
 料理人には似ても似つかない、高級ブランドの服は、嫌味なくらい男に似合っていた。
「可愛いよ」
 蜜がぶっ飛んだ頭呆然としているその顔を、男は笑いながらそう称した。
 そして、それでも反応を示さない蜜のチェリーのような唇を、ペロリと舐めた。
 唾液を含んだ舌が、蜜の柔らかなソコを舐めると、一瞬にして潤う。
(えええええっ!?)
「――――っ!」
 両手でしっかりと唇を抑え、後ろ歩きでドアから出て、廊下の壁に背中をぶつける。
 思い切りぶつけたから、その痛みは結構なものだったけれど、それよりもそれよりもと言う感じだった。
「っ、あの、はっ、ぇえっ!?」
 言葉にならない言葉を発しながら、それでも唇は必死に抑えている。
(ぺ、ペロってな、舐めた……っ)
 真っ赤になるとはこういうことかと思うほど、耳までゆでだこ状態になりながら、蜜はまん丸の大きなつぶらな瞳をますます大きくして、倒れないのが不思議なくらい動揺していた。
「……甘い……」
 けれど、それを仕掛けた張本人はまた別のことに驚いているようで、自分の唇を長い人差し指でなぞりながら、ブツブツと呟いている。
「……まさか、いや、でも……」
 男の呟き声を聞きながら、蜜はますます頭を混乱させている。
 これが、これが本当にあの天才カリスマ料理人「神行寺 奏也」なのだろうか。

 リハーサルは本番同様に話が進められる。
 けれど、もちろん料理は作るわけじゃないし、まだ司会とのトークもするわけじゃないから、だいたいの場合こういう料理番組は和やかな雰囲気で済まされるんだけど。
「神行寺さん入ります」
 その声と同時に、スタッフ一同および観覧にきていたお客様全員黄色い声と歓声をあげた。
 ただ一人、蜜だけが口の端が引きつるのを抑えようと我慢していたけれど。
 何せ、あの男はテレビに映るまんま、いやそれ以上だったのだ。
 だいたいテレビに映る人って言うのはそれなりのキャラを作る事が多い。お笑い芸人だって騒がしいキャラを作っている人が多くて、楽屋では無口な人も多い。それに芸能人じゃない人でテレビに映る人は、さらに面白くないと抜擢なんてされないから、わざとオカマキャラを作っていたりする人もいるくらいだ。
 そして、この今スタジオの大きなキッチンでアシスタントのグラビアアイドルと司会の人と和やかに談笑しているこの神行寺奏也はその名も料理界の貴公子だった。
 流行の火が点いたのはお昼時にワイドショーなどを見る奥様方からだったけれど、今では女子高生、女子中学生、はたまた小学生にまで熱い指示をうける、抱かれたい男ナンバーワンでもある。
 神風のごとく現われた彼は、数年海外の三ツ星レストランで働いていたが、最近日本のいたるところに店舗をつくり、名前が知られてきたのだ。
 彼の作る料理は、まさに麻薬。
 魔法をかけられて作ったような見栄え、今まで味わった事ないようなそして飽きのこない味、透き通るような香り。
 何回でも食べたくなる、そういう意味あわせで麻薬と呼ばれているらしい。
 そして、なんと言っても神行寺という男の外見が、アイドルや芸能人、俳優の域を越えていた。
 北欧系のクオーターであるらしく、日本人顔なのだが整っていて少しだけ色素が薄い。青黒い瞳は、何もかもを吸い取ってしまいそうなほど澄んでいる。金に近いような茶色い髪は、揺れるたびにエンジェルリングが見える。そして、その綺麗な容姿から繰り出される言葉巧みなボイスは、日本の乙女の百パーセントを虜にしてしまったらしい。
『セックスより気持ちいい料理』
 これが神行寺の料理のコンセプトだ。
 セクシーな容姿の男から、こんなことを言われてしまっては、新婚奥様も旦那を忘れるというものなのだ。
「やっぱり、神行寺さんって素敵ねぇ」
 横から聞こえてきたスタッフの女性の声に、蜜は『はぁ?』と言う声を出しそうになって口を塞ぐ。しかし、その行為が、さっきの唇舐められ事件を思い出し、一人顔を赤くしてしまう。
 なんだったんだろう、さっきのは。
 蜜は頭からプシューと言う蒸気機関のような音を出しそうになりながら、火照る自分の顔を仰ぐ。
 けれど、まぁ、今日滞りなく進めばもう会うことも無い。
 なぜなら彼は世界の神行寺奏也なのだ。
 料理界のカリスマであるだけではない、世界各国から招待されるほどのシェフで、別にテレビに出なくたって十分な人なのだ。
 だいたいブームと言うのはさっさと終わってしまうものだから、この人をテレビで見るのも後半年ほどのことだろう。
 そうすれば全部忘れる……。
 蜜が一人そう思っていると、リハーサル中のはずのスタジオが少しざわついた。
 遠くから見ていた数人のスタッフと共に、蜜は神行寺たちのいる方へと走っていく。
 すると、今日神行寺のアシスタントをするはずだったグラビアアイドルの女の子が化粧をぐしゃぐしゃにしながら、泣いている。
 その嗚咽の中からは、神行寺さんがどうのこうのと言う言葉が聞き取れる。
(あの男……何を……っ)
 そう心に思ったのは蜜一人だろう。
 誰しもが、泣いている女の子より、美男子の有名コックの見方だ。
 アイドルの子のマネージャーも何度も、何度も神行寺に頭を下げている。非道の新堂すら顔を真っ青にさせて、その仲介に必死だ。
「あ、あの……何かあったんですか」
「上原……ああ、なんかみゆきちゃんは神行寺さんのお好みに合わなかったらしい」
(お、お好みだと〜?)
 蜜が顔を引きつらせると、隣の男が蜜と話している男の肘をつついた。
「違うよ、みゆきちゃんのあの化粧と香水が気に入らなかったんだよ。料理人って言うのはそういうのに煩いっていうけど、本当だったんだな」
「香水……?」
 確かに、香水のようなものを彼女はつけていたかもしれない。
 化粧も少しはするだろう、女の子だし、テレビに映る人だ。
 それを気に食わないからって、あいつ何言ったんだっ。一体。
「それにしても……って、上原、お前、どこに行くんだよっ」
 カメラの映る範囲にズカズカと入っていこうとする上原に、男二人は慌てて静止をかける。
「文句言ってくる」
「お、おい!」
 けれど、どんなに止められても蜜の考えは変わらなかった。
 どんなに偉い人でも、どんなに凄い人でも、人を泣かせていいはずがない。
 神行寺と新堂がなにやら話している方へ近づき、大きく息を吸った。
「――神行寺さ……」
「この子がいいな、俺は」
 しかし、いきなり神行寺と目が合うと、神行寺は蜜を指して微笑んでそう一言言った。
(……え?)
 再びスタジオが沸いた。
(お、俺……?)
 天下の貴公子が指差した人物を皆が皆呆然と見詰めている。
「ええ、あの…ですが、これは……」
 事情を知っているはずの新堂ですら、戸惑いを隠せず蜜を下から上から見定めながら、出し惜しみをするような回答をする。
「もしこの子をアシスタントにしてくれるのなら、今回のことはお互い水に流す。あと……そうだね、俺はこの番組に出来る限りの努力はする、どうかな」
 神行寺の滑らかな声に、新堂の目が変わる。
 新堂は蜜の後ろに回ると、その華奢な背中をゴツイ手で押し、まるで差し出すかのように神行寺の前に突き出した。
「どうぞ、こんなんだったら使ってください。あははは」
「商談成立」
「え、あ、あの……新堂さん……俺、何……」
 新堂は強く蜜の背中を叩くと、冷や汗のでまくった額をタオルで拭きながら、スタッフ一同に説明しにいってしまった。


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